浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。
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断腸亭落語案内 その25 古今亭志ん生 三軒長屋

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引き続き、志ん生師「三軒長屋」。

真ん中の伊勢勘の親父、お妾さんの家。
鳶頭(かしら)の家と、剣術の先生の家の両脇に迷惑をしている。
伊勢勘の親父は、妾にこの三軒は抵当に取ってあって、もうじき
自分のものになる。そうなれば、三軒を一軒にして住める。

伊「こっちゃぁ、鳶頭だ、こっちゃあ、剣術使いだ。こんなもなぁ
  おっ放り出しちゃって。
  少しの間、辛抱しなよ。
  石の上にも三年ということがあらぁ。
  横丁の占い師を見ろ、どぶ板の上に、七年いらぁ。」

これを妾の家の女中が、井戸端で喋る。
それが鳶頭の姐さんの耳に入った。
それでなくとも、鳶頭が帰らないから、じりじりしてる。
そこへもってきて、これだから、身体が震えてくる。

そして、三日ばかり家をあけた鳶頭が帰ってくる。
ちょいとばかり、入りにくいので、表から小言を言いながら

頭「どうしたんだ、どうしたんだぁ、奴(やっこ)ぉ。
  ごみで一杯(いっぺえ)じゃねえか。
  家の前掃除しとかなきゃいけねえや。
  縁起商売(いんぎしょうべぇ)だぃ。」
姐「いいよ!。そんなとこ、うっちゃっとき!。」
頭「汚えから掃除させんだい。」
姐「いいんだよ!。掃除なんかさせなくて。
  こんな家はどうせ店立(たなだ)て食っちゃうんだ。」

店立というのは、大家から、立ち退きを求められること。

頭「そらーしょうがねえじゃねーか。
  入るとき証文が入ってるんだ。」

以前は「ご入用のときは、いつ何時でも明け渡します」という
一札(いっさつ)取られていたのである。

姐「その店立てじゃないんだよ。」
頭「てやんでぇぃ。二日や三日家開けたって、なにぐずぐずいって
  やんでぃ。」
姐「焼き餅でお前さんになんか言ってんじゃないよ。」

ここまでの話しをする。
そして
姐「そんなこと言われて、お前さん黙ってんのかい!。
  男がすたるよ!」

で、先に書いたような引越し資金を伊勢勘の親父からせしめて、
鳶頭と先生が互いに入れ替わるという結末である。
http://www.dancyotei.com/2019/jun/rakugo22.html

いかがであったろうか。
志ん生師「三軒長屋」。

原話は、中国、明の笑い話集にあるそうである。(「落語の鑑賞201」
延広真治編)「口演速記明治大正落語集成3」(以下「集成」)の
解説には文化4年(1807年)の上演記録に「楠うん平」という名前で
あるという。(同)

本文では触れなかったが、剣術の先生の名前が楠運平橘正国(くすのき
うんぺいたちばなのまさくに)という。
たいしておもしろくないが、弟子の名前が山坂転太(やまさかころんだ)
石野地蔵(いしのじぞう)なんという。
また、鳶頭が楠先生の家へ行って話しをする件(くだり)だったり、先生の
ところの話しがもう少しあるのだが、どうしても鳶頭の家での部分の
おもしろさにはかなわないので、省いた。

ともあれ。
噺としての成立は、文化といっているので、かなり古いといってよいだろう。
ただ、例によって現代の形になったのがいつなのかはわからない。

「集成」に入っているのは、明治27年、四代目橘家円喬のもの。
この人は、志ん生師(5代目)が師として生涯慕った人。

当時、この円喬師(4代目)の「三軒長屋」は絶品であったと、志ん生
(5代目)自身の言。(「落語の鑑賞201」延広真治編)特に、獅子舞の
件の軽快さは志ん生師はさすがのものだが、円喬師(4代目)はもっと
よかったと、志ん生師(5代目)は語っているという。(前出)

前にも少し触れた橘家円喬(4代目)。慶応元年(1865年)~大正元年
(1912年)。円朝直弟子。
品川の円蔵(橘家円蔵)(4代目)文久3年(1864年)~大正11年(1922年)、
柳家小さん(3代目)安政3年(1857年)~昭和5年(1930年)で、同世代。
三遊亭円朝、禽語楼小さんを第一世代とすると、明治第二世代。

円喬(4代目)以外では小さん(3代目)も得意にしていた(「集成」)。
明治38年(1905年)には歌舞伎化もされているよう。(「定本落語三百題」
武藤禎夫)

この明治27年の円喬師(4代目)の速記から志ん生師(5代目)のものは
大筋では変わっていない。てにおはが違う程度といってよいだろう。
膨大に膨らんだ枝葉でできているという構成は、明治27年には既にできて
いたということである。

落語の噺というのは、大きな筋があってそれが磨き上げられて
現代に語り伝えられている。
長い因縁噺が、陰気な部分は削られ、おもしろい部分が残され、
くすぐり(洒落やギャグ)が加えられることが多い。
ここまで見てきたものでも「黄金餅」などは後半部分は演じられなく
なったり、また、後で触れようと思うが「野晒し」などもその例である。

「三軒長屋」はむしろ逆。
メインのストーリーと無関係ではないが、まあ、横道といってよい
獅子舞の件、などが膨らまされ、そこが磨かれている。
そして、聞きどころ、聞かせどころになっている。

文化年間に生まれているとすると、この円喬師(4代目)の速記まで
80年、90年、あるいは100年ほどの期間がある。
この間が、今はまったくわからない。
いつ、この形になったのか。(研究が進んでほしいものである。)

仮説ではあるが、こんなことを考えた。

このシリーズの前に円朝師の研究と速記を読んだ。

例えば「真景累ヶ淵」などでは、メインのストーリーとほぼ
関係のない枝葉のストーリーが多くあるのだが、それもかなり
細かく、演じられている。

まあ、これはあたり前。演じる限りは、その時聞いているお客を
満足させなければいけない。そこだけ切りだしてもちゃんと成立
していなければいけないわけである。

なん時間も、なん日もかけて演じるのでまあ長くてもいいわけである。
いや、むしろ、長い方がよかったのかもしれぬ。
「つづきは明日」で毎日、毎日、長く来てもらえるのが演者にとっても
興行的にも最もよいのであろう。引っ張ると、今でもいうがそんなこと。

そして、この頃の作品の作り方と、その後、明治、あるいは
“近代”的な作品の作り方、考え方というのは根本的に違っていた
のではなかろうか。
メインのストーリーとは関係のない部分も、そういう意味では
整理されずに、まあ、いえば、ダラダラと作られるのがあたり前
であったと考えてもよいのではなかろうか。

歌舞伎、その前の人形浄瑠璃も基本、もともとは作品全体は長い。
段、数多くのパートに分かれており、徐々に人気のパートのみが
上演されるようになっていった。

枝葉を膨らませ、一つの作品を作るという作り方で「三軒長屋」も
作られていった。そして、この噺の場合その枝葉が、例外的に
おもしろかった。それで、そのまま残ってしまった。
そういうことなのではなかろうか。

 

 

つづく