浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その16 古今亭志ん生 富久

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引き続き、志ん生師「富久」。

「御富、突き止めぇ~~~~~~
「鶴の千、五百番ぁ~~~~~~ん」

ん?、、ぶっ倒れている奴がいる。
「おぅ、、、どうしたんだ、えっ、どうしたんだ!」
「う~~~~~~~~」
「どうしたんだ!え?」
「あった、あった、あった、、、、当たった」

腰が抜けたのでまわりの人に、胴上げをされて、掛かりのところまで。
すると、富くじ久蔵に売った人。

「当たったね~、久さん。
 札をお出し。」

「・・・・・・・。

 札は、、ポー」

「え~~?こないだの火事で、焼いた~~?
 そりゃあ、だめだ、久さん」

今でもそうだろうが、当たり札がなければ、だめ。

傷心の久蔵、自棄にもなっている。

とぼとぼと、歩いていると、鳶頭(かしら)に出会う。

頭「久蔵じゃねえか?」
久「あー、鳶頭」
頭「どうしたい、ぼんやりして。
 手前(てめえ)今どこにいるんだ。
 え~?
 客んとこに権八(居候)してるってっ?
 よせやい。いつまで居候してるのは。
 所帯持ったら、家いこいよ。
 渡すもんがあるから。
 こないだの火事じゃ、いなかったじぇねえか。
 お前(めえ)んところの前通ったらな、覗いたら
 あいてやがる。中入ってみたら、損料布団があらあ。
 また、手前困るだろうと思うからな、うちの奴(やっこ)に担がせて
 閉まりをしようと思って、ひょいと後ろを見たら、手前も痩せても
 枯れても芸人だ、いいお宮があったな。もったいねえから俺ぁ
 持ってきた。
 お宮と布団を渡すからな。所帯持ったら飛んでこいよ。」

久「うわぁ~~」
久蔵は鳶頭にむしゃぶりつく。
久「大神宮様のお宮がある?」
頭「あるよ。なんだよ!」
久「泥棒!」
頭「なにが、泥棒だ!?
  今、渡してやりゃ、いいんだな。
  じゃ、家いこいよ。どうかしちまいやがって」

頭「ほら、布団だ。持ってけ~」
久「布団なんて、いらねえや、、お宮だ」
頭「やるよ!。そこにあら。」
久「あーあった」
頭「文句ねえだろ」

久「まだある。この扉、開いて、あればいいが、なかったら、、」

開ける!。

久「あた、あた、あった!」

鳶頭にわけを話して、謝る。

頭「うまくやりゃぁがったなぁ~~。
  この暮れぃきて、千両たぁ。」
久「はい。大神宮様のおかげで、方々にお払いができます」

これで下げ。

今は、ほぼ判らないだろう。
志ん生師でも枕で説明をしていた。

暮れになると「大神宮様のお祓い」といって、お札を配りながら
大神宮様=神棚のお祓いにまわっている者があった、と。

“お祓い”に、借金の“払い”をかけている。

江戸期、御師(おし)といっていたのだが、伊勢神宮から宣伝というのか
布教というのか、伊勢参り勧誘のためにお札を配りながら、神棚のお祓い
をしてくれる者があった。大神宮様というのは伊勢神宮のこと。この頃、
神棚には大神宮様を祀るのが一般的であった。これもあり神棚そのものを
大神宮様ともいっていた。(伊勢以外にも御師は、富士、熊野、出雲などで
発達し、伊勢講、富士講など御師によって組織され参拝と旅行を兼ねた
集団=講が数多く江戸にもあった。落語にも「大山参り」というのがある。
これは神奈川県の大山阿夫利神社を信仰するもの。講中で参拝登山をして
江の島、鎌倉をまわって物見遊山かたがた帰ってくる。)

さて「富久」。
円朝作という説もあったようだが、今は否定されているよう。(「落語の
鑑賞201」(延広真治編))黙阿弥作の歌舞伎「地震加藤」(初演明治2年
(1869年市村座)のもじりではないかとのこと。(同)
これは加藤清正が秀吉の勘気(かんき)に触れていた頃、大地震(慶長
伏見地震)が起き、真っ先に駆けつけ、その怒りが解けたというのを芝居に
したもの。と、すると、この噺の成立は明治初期と考えてよいのか。

速記では例の「口演速記明治大正落語集成」(講談社)に入っている。
演者は三代目小さん、明治30年(1897年)のもの。三代目小さんは
安政3年(1857年)~昭和5年(1930年)。
「らくだ」を東京に移した人として登場していた。

円朝、二代目(禽語楼)小さんの次の、明治第二世代。
「富久」は円朝作どころか、柳派の噺であった可能性もあるか。

読んでみると、大筋は同じだが随分と枝葉、無駄なところがある。
その後の世代で刈り込まれ、文楽(8代目)、志ん生(5代目)に
伝えられたのであろう。

注目の掛ける距離であるが、これは浅草三間町から芝。ただ、芝という
だけで、久保町とは特定されていない。後のことのようである。
だが、長距離なのは、元々であった。

富くじというのは、江戸期寺社奉行管理のもと、寺社の修繕改築など
を名目に行われた。ただ、これも過熱し、過当競争もあったよう。
天保の改革で禁止になり、その後は明治新政府になっても許可はされな
かった。復活は第二次大戦中の戦費調達を目的に行われた勝札というもの
らしいが、これは抽選日前に敗戦になっており負札と揶揄されたとのこと。
本格的には、戦後すぐの昭和20年(1945年)の第一回宝籤まで待たなければ
ならない。 (東京都公文書館 史料解説)

こんなことなので天保以前の文化・文政生まれの者でなければ実体験として
富くじを知らなったわけである。富くじの噺は「富久」以外にも「宿屋の富」
「水屋の富」など複数あるが、天保以降には演れなかった、または文化
文政期に作られたのでなければ、噺としてなかった可能性すらあろう。
また、明治期になって口演されても、もはや富くじそのものを、小さん
(3代目)にしても実体験としては知らない者が演り、富くじの記憶も曖昧に
なっている、はずである。
境内での抽選の場面など、それこそ“見てきたように”語られている。
場面描写として“怪しい”可能性は多分にあることも覚えておきたい。

富くじも宝くじもないのに、富くじの噺は人気で続けられたというのは
注目に値しよう。庶民が一攫千金のささやかな夢を買うもの。志ん生師も
当たったらどうしたい、というところなど、愉しそうに演じていたように
聞こえる。

 

つづく