浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その25

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さて。
引き続き「名人長二」。

晩年「文七元結」の次の作。

あらすじは書かぬが、ざっくりいうと、超職人気質の
指物職人の長二の噺。

因縁ドラマがあって、お話としてはやはり勧善懲悪になっている。
それも職人気質の真っ直ぐな長二ゆえに、最終的には勝者となる
ハッピーエンドのストーリー展開。

主人公が職人で腕がよいというのは「文七元結」と同じ。
さらにこちらは「名人」といっているように、長兵衛よりも上。
いや、むしろストイック、変人といってよい職人気質。
いくら金を積まれても、気に入らなければ仕事はしない。
これは「円朝は「名人長二」の中で職人に仮託しながら芸人としての
こだわりと芸の神髄を語っていた」と須田先生はいっている。
これは間違いはなかろう。
現代も後輩落語家たちである志ん生師にしても、喬太郎師にしても
「名人長二」を演じる時には、そういう文脈でも語っている。

また長兵衛と長二、二人とも続いて職人というのは、彼の寄席の客の
主たる者たちが、職人であったということとも無関係ではなかろう。
田舎から出てきて、正直と勤勉、工夫で踏まれても、踏まれても働き、
大成功を成し遂げ、故郷に錦を飾る「塩原多助」でそっぽを向かれたことの、
反省と受け取れるかもしれない。これは須田先生は直接書かれてはいない
と思うが。

変人ともいえる真っ直ぐな職人気質を是とする、まあ、わかりやすいと
言ってしまえばそれっきりだが「名人長二」はそういうことになるように思う。

また、須田先生は、舞台が東京でなく江戸、旧幕時代であるということも
ポイントとして指摘している。今回、この私の文章では取り上げなかったが、
維新後の世の中に舞台を設定した作品もこれ以前にありながら、再び、
というべきか「文七元結」も「名人長二」も江戸に戻っているのである。

文七元結」は江戸っ子バンザイ。
「名人長二」は江戸の職人気質バンザイ。

円朝は明治の為政者への接近、明治政府の国民教導という“呼びかけ”に
“振り向き”、(「牡丹灯籠」や「累ヶ淵」で(筆者))いままで向き合って
きた慾と暴力への視点をずらして「塩原多助一代記」という噺を創作してしまった。
円朝は、長二のように権力や世間から超然として自己の芸を貫くことが
できなかった、のである。その屈折した思いが「名人長二」に底流している、
江戸時代へのノスタルジーとして。」と須田先生はいっている。

ここでいっている「世間」とは円朝の寄席の客ではなく、明治政府周辺の世間
という理解でよいのであろう。お客から超然とした職人的な芸人などあり得ない。
お客を捕まえる、唸らせる芸ができる職人噺家への回帰ということであろう。

もう一つ、江戸へのノスタルジー
明治の20年代というのは、松方デフレで不景気。寄席の客も減って、それで
ステテコ踊りのような際物(きわもの)が当たったりしている。まあ、
こんなことはよくあることであろう。円朝は少なくとも寄席育ちの落語家で、
理解し、飲み込んでいたことと思う。自分が周囲と対立し、寄席に出演られ
なくなったことも含めて。

ともあれ、文明開化を経ても、ちっとも生活がよくならない、という現実に
「江戸へのノスタルジーという“たまゆらの夢”に拍手をしたのであろう」と、
須田先生は語ってる。

私は、ここまでは少し読みすぎではないか、と感じている。

別段不景気は円朝の責任ではない。
この頃、不景気もあって江戸へのノスタルジーというのは一般にあったこと
であろう。円朝自身も感じていたであろうが、円朝に限らず。それに円朝
同調、雷同したというべきではなかろうか。

「江戸へのノスタルジー」というのは、円朝に限らず、継続して、繰り返し、
それこそ、現代においても続いている。(以前、このあたり少し考えている。
もちろん、円朝ら江戸生まれの人々がいなくなってから、変質はしていくが。)

例えば、もう少し前、明治14年1881年)初演になるが黙阿弥翁の
「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」という芝居がある。

私が毎度書いている、直侍の例の「入谷そばやの場」のことである。
粋な江戸っ子がそばやでどう振舞うのかを描いているわけである。
ちょうどこの年、上野の山では大博覧会が開かれている。
地方からお上りさんが、大挙して東京見物にくる。彼らは必ず東京にくれば
セットで芝居見物をする。これにぶつけるように、五代目菊五郎と黙阿弥が
江戸の美学を詰め込んで拵えたという指摘を以前に書いたことがある
(「黙阿弥の明治維新渡辺保)。もちろん、黙阿弥の元々のお客である、
江戸っ子は喝采し、それ以後もこの芝居は繰り返し演じられた。

「江戸へのノスタルジー」はこの頃から既に始まっている。
文明開化花盛りであるからこそ「江戸へのノスタルジー」は作られ
受ける、という側面があると考える。
明治14年に既に、東京人になった江戸人は江戸人のアイデンティティーを
確認したかった。

円朝流に寄席のお客である職人に合わせ、要望に応えようとした、という
理解である。
だが、そこにはもちろん勧善懲悪でハッピーエンドはセットである。

ただ、実際には寄席には出演られておらず、新聞での発表であったので
円朝自身からどのくらい伝わったのかどうか。
もちろん、現代まで「文七元結」も「名人長二」も伝わっているので、円朝死後
弟子たちが噺として寄席で演じ続け、この二作を磨いたということである。

ともあれ、なぜ「文七元結」「名人長二」が、どのような背景でできたのかは、
これでよく理解できた。
「累ヶ淵」「牡丹灯籠」から、この動乱の時代の中で落語家として生き作品を
作り、演じてきた名人円朝のもがきながらたどり着いたところといってよいの
だろう。もちろんその功績は落語と落語界にとって絶大なものと評価する。

さて。
ここまで、須田先生の歴史学者として明らかにしていただいた功績と
先生の円朝論を追ってきた。

ここからはこれらを踏まえて私の考えたことを書いてみたい。

煎じ詰めると、落語とはなにか、ということ。
もちろん、江戸落語についてである。
いつも断ってはいないが、成り立ちの違う上方落語は別。
もっとも私自身、上方落語は知識もなく語りたくても語れないが。

円朝円朝の作品はわかったがそれ以外の落語家とその噺も
含めてである。これを解明したい。

江戸落語は、文化文政期に生まれ、育ち天保期に大きく発展した。
これはまずよろしかろう。

なん回も書いており、史実、通説として定着しているとする。
ただ、毎度書いている通り、ざっくりした内容は考証できるが、
その語られている詳細な言葉はわかっていない。ということは
作品のきちんとした考証、理解は今はできていないと考える。
私は、ざっくりした内容だけではその噺を理解したことにはならないと
と考えるからである。つまり、現代では解明はできないのだが、
そこに少しでも近付きたい。

そこで、で、ある。
須田先生も書かれているが、文化文政に「粋」が定着したという理解を
一先ず、する。この時点での落語は「粋」とする。仮説ではあるが。
もちろん、落語なので滑稽、おもしろい、笑いになるのは前提である。
それ以前の蜀山人太田南畝先生や川柳の、洒落、地口がベースで、
俳句の諧謔を加えてもよいかもしれない。これに「粋」が加わった姿、か。
実際にはどんなものか謎のままだが。

そして、大きなポイントは須田先生に明らかにしていただいた、
その後の天保から、明治0年代、10年代半ばまでの「悪党の世紀」
になる。

 

つづく

 

 


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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より