浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その23

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さて、ここでちょいと、休憩。一つ、思い出したことがあった。

深く考えたことでもないので、読み飛ばしていただきたい
のであるが、この円朝師のことから、亡くなった永六輔さんの
ことを思い出したのである。

永六輔さんとは、もちろん坂本九の名曲「上を向いて歩こう」の
作詞者、あるいはTV草創期のNHKのバラエティー番組
夢であいましょう」の構成をされた方。エッセイスト、タレント。
永さんの放送作家や作詞家としての業績になにか物申す意図は
まったくないので先に申し上げておきたい。

永六輔さんのご実家は町会は隣なのだが、私の住んでいる元浅草。
町会は永住。つまりごくご近所。池波先生の育たれたのも同じ永住町であった。
この界隈、寺町であると書いているが、永さんのご実家もお寺さん。

池波先生もそうだが、永さんもこの界隈なので、下町生まれと
いってよいだろう。ご実家のお寺さんでは今も、時々、落語会を
催されてもいる。
池波先生は、自らは絶対に書かれておらず、むしろ嫌いであったと
書かれていたと思うが、いわゆる江戸っ子といってよい。
いろんな手垢がついた江戸っ子という言葉を嫌われていたのだと
思われる。ただ、先生は若い頃はかなり喧嘩っ早く、いかにも、
というところもあったことは確かのようである。

永さんにはそういうところは感じなかった。
子供の頃、永さんのTBSラジオの番組をよく聞いていたのを
覚えている。「永六輔の誰かとどかかで」であったか。
あまり内容は覚えていないのだが、子供心になにか惹かれるものが
あったのであろう。ウイークデーの午前の短い時間であったと思う。
むろん小学校に通っていた頃なので毎日ではなかったはずであるが
テーマ音楽と永さんの声は記憶に残っている。
が、成長とともにか、いつの頃からか、なんだか永さんの話している
ことが“胡散臭く”感じられるようになった。
説教臭い?、野暮?、、そんな感じであろうか。

なにか似ていまいか、円朝師と、と思ったのである。
永さんもお寺さんの生まれ、円朝師はお兄さんがお坊さん。
どうも坊さんのいうことは説教くさくなる?。
むろん下町生まれでも、いろんな方がいるのはあたり前である。

蛇足であった。

閑話休題

おおかた、須田先生の論はここまでに出ているのだが、
もう一つだけ、書いておかなければいけない噺がある。
先に、私もなん回か触れている「文七元結」である。

三遊亭円朝作「文七元結(ぶんしちもっとい)」
本所達磨横丁、裏長屋に住む左官の親方長兵衛と
その内儀さん、娘のお久、十八歳の一家があった。

長兵衛は左官の腕はいいが、三年この方博打に狂って仕事をしない。
借金だらけ、むろん、家は困る。
暮れの二八日。今日も細川の屋敷(※1)で取られてスッテンテン。
着物も取られて、褌に部屋で借りた尻切りの短い、細川の法被(はっぴ)
(※2)一枚で帰ってくる。

長兵衛が帰ってくると、内儀さんがキチガイのようになって
騒いでいる。娘のお久が帰ってこないという。
と、そこへ吉原の[佐野槌(さのづち)]の若い者がくる。
昨夜から、お宅のお娘さんがうちにきている。([佐野槌]の)
女将が呼んでいるので、すぐにきてくれという。
[佐野槌]は大見世。左官の腕を買われ、長兵衛出入りの家である。

吉原へ尻切りの法被一枚ではまさか行けないので、嫌がる内儀さんの
着物をはがして法被を着せ、自分は内儀さんのを着て、出かける。
むろん女物の着物なので八ツ口がある妙な恰好。

[佐野槌]にきてみると、お久がいる。女将がいうには夕べ、この子
が訪ねてきた。お久も、長兵衛が仕事をしていたので、弁当を届けに
きたりしていので、女将とは顔馴染みであった。親の恥をさらすよう
ですが、長兵衛が仕事をせず、困っている。私を女郎として働かせて
その身代金を長兵衛にやって、借金を返し、女将さんからちゃんと働く
ように意見をしてほしい、という。
「長兵衛さん、え!、お前さん、どうすんだい?」
女将は五十両貸すから、それで借金を返しなさい。貸すんだよ。
いつ返す?、
長「年明けには、、」
女「そんな無理なことはいわないで。来年の大晦日まで待ってあげる。
  それなら返せるでしょ。その間、この子は店には出さない。私の
  身の回りのことなんかしてもらう。
  その代わり、大晦日を一日遅れても、店に出すよ。
  それでわるい客から病気でも引き受けたら、私ゃお前さん、
  この子にすまないと思うんだ」

わかりました、と長兵衛は五十両を受け取り[佐野槌]を出る。
まるで、手の内の玉を取られたように、トボトボと歩く。
右に土手の堂哲、左に待乳山聖天の森。
吾妻橋にかかってくる。
と。
店(たな)もんの若いらしいのが、身投げをしようとしている。
長兵衛は慌てて止める。
訳を聞く。
若者は、日本橋の鼈甲問屋の手代で文七。
小梅の水戸様(※3)の掛け五十両を受け取って帰ってきたが、
怪しい風体の男にぶつかられ、取られた。
申し訳がないので、身投げをする、と。

長兵衛は様々説得するが、文七は聞かない。
仕方なく長兵衛は、金が、娘が吉原に身を沈めて作った五十両である
ことを文七に話し、文七に金をぶつけて立ち去る。

ここで、前にも書いたが「俺の娘は、吉原に身を沈めてもきっと死なない。
お前は死んじゃうてっていうから、やるんだ」という長兵衛の台詞。

文七は店に帰り、遅くなった詫びをいい、五十両を主人に渡す。
「驚いた。番頭さん。五十両を、文七が持ってきたよ。
 お前、これ、どっから持ってきたんだ?」
「ですから、水戸様の」
「嘘をつけ。
 どうしてそう、碁が好きなんだ。先方と碁を囲んで、遅くなったのに
 気が付いて、慌てて立って出てきた。碁盤をどけてみると、五十両
 入ったうちの財布が出てきた。
 もう随分前に五十両は届いているんだ。
 え?、これ、どっから持ってきた?」

文七は訳を話す。なるほど、わかった。番頭とも相談し、翌朝早く
番頭は出ていく。
昼前、主人は文七を連れて出る。蔵前から駒形、吾妻橋
夕べここでお前は、身を投げようとしたんだな。はい。
橋を渡り、酒屋。二升の切手(商品券)と柄樽(※4)を買って、長兵衛の
家を聞き、裏長屋の長兵衛の家。
外から聞こえるほど、夫婦は喧嘩をしている。
「だからお前さん、その五十両はどうしたんだよ」
「なんべんもいってるじゃねえかよ。身投げをするって奴にやったん
 だよ」
「どこのだれだよ。名前はなんていうんだよ」
「知らねえよ。そんなの聞いてねえ」
「それご覧。嘘をおつき。また、使っちまったんだろ」
「そうじゃねえよ。やったんだ」
「お前なんか、身投げを助けるガラか、、、」

そこに主人と文七がくる。
主人は訳を話す。文七の顔をみて、長兵衛は、安堵。
十両はお返しする、という主人に、断る長兵衛。
一度やったものは、もらえねえ。
尻切りの法被で屏風の陰に隠れている内儀さんも気が気ではない。
わかった。もらうよ。もらう。
実はね、これがねえとたいへんなことになって、、夕べから
寝てねえんですよ。
酒の切手、柄樽をもらう。これはもう遠慮はしませんと、長兵衛。
そして、主人は長兵衛に、親方のような清い心の方と親戚付き合いを
させてほしいという。そして、この文七は親兄弟がなく、親方に
後見、親代わりになってほしいと。

そして、もう一つ、引き出物といって、腰障子を開けて、声を掛ける。
真新しい四つ手篭が着き、そこから、昨日とは打って変わって、着飾った
娘のお久が出てくる。

「おとっつぁん、私、このおじさんに身請けをされてきたの」

お久の声を聞いた内儀さんもたまらず屏風の陰から飛び出し、
三人は抱き合って泣いた。
その後、文七とお久は夫婦になり麹町に元結や(※5)を出し、繁盛をした
という。文七元結で御座いました。(主として、志ん生(5代目)より)

 

 


※1細川の屋敷:江戸期、肥後熊本三万五千石細川家の下屋敷吾妻橋
 渡ったところにあった。外様大名下屋敷の奉公人、中間(ちゅうげん)
 の部屋、中間部屋などがよく博打場になっていたのである。
  
※2法被:江戸東京では、法被という言い方はしない。半纏(はんてん)
 である。商家の奉公人が着る店の名前や印の入ったもの、あるいは
 職人が着るもの。祭の半纏。みんな法被といわず、半纏という。
 ただし、武家の中間などが着るものは伝統的に法被と、使い分けており、
 噺の中でも今も法被といっている。ものとしてはほぼ同じものであると
 思われる。

※3小梅の水戸様:向島にあった水戸藩屋敷。原森川(北十間川)の北。
 今は桜が見事な隅田公園になっている。小梅村といっていたことから。

※4二升の切手と柄樽:切手は今の商品券だが、江戸の頃からあった。
 日本橋の鰹節店[にんべん]が始めた贈答用の鰹節の切手が最初という。
 柄樽は角樽のこと。お祝いに使い、実際に酒を入れることはなかった。
 つまりここは空の樽。(今は実際に酒を入れたものも売られている。)

※5元結や:元結はモットイだが、正しく発音をするとモトユイ。
 ちょんまげのまげを結う紙を細くよった紐のこと。実際に「文七元結
 という元結があったよう。現代では祝儀袋などの水引が同じもの。

 

 

 

つづく

 

 


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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より