浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その22

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引き続き、円朝師。

須田先生の「三遊亭円朝と民衆世界」。

円朝の代表作「怪談牡丹灯籠」の考察部分ではあるが、
ほぼ円朝円朝作品全体の考察、結論といってもよい内容であろう。

円朝の「牡丹灯籠」で描きたかったのは「勧善懲悪と忠義・義理」で
これは江戸末の創作当時からのこと。

“描きたかった”、ということは、実は憶えておきたいこと。
円朝はその噺のテーマ、メッセージを考えて作っている創作者
であったこと。

こういう噺家、落語作者はこの時代どのくらいいたのであろうか。

ほぼいないのではなかろうか。これは須田先生ではなく私の見解。

落語に限らず、歌舞伎、例えば、黙阿弥であっても、なん度も
書いているが、お客の前で、エンターテインメントとしてお金を取って
演じられるもの。極端なことをいえば、お客が観て、聞いて
おもしろければよいのである。お客がこなければ、なんの意味も
ない。そこになにかテーマなり、メッセージを入れたいと考える
必要はまるでない。これが近代ではない江戸末までの、ごく普通、
あたり前のことであったと思われる。(ただ、文学というのか、
読本などの書いたものの世界では、大衆に対するものでも
メッセージ性は珍しくないと思われる。たとえば馬琴の「南総里見八犬伝」。
これは妖怪が出てくる怪異の話だが、やはり勧善懲悪、忠義、孝行と
いった儒教的な価値観がベースに存在している。これも私の考え。)

さて。
この連載の最初に、須田先生自身の先行研究「悪党の一九世紀」
みた。

この内容のおさらい。
「19世紀、幕藩権力が崩壊し新政府が形成されていく中」。
江戸後期。天保の全国規模の大飢饉がスタートである。

しかし、大飢饉があったから、ということではなく、当時の権力状況
についての状況把握である。幕藩権力は徐々にであろうが既に
崩壊していた。
(先生の研究では、どうして、どのように崩壊していったのかは、
触れられていない。気になるところではあるが。)

ここに大飢饉が引き金ということになろう。
「社会秩序が不安定となり、民衆運動をも含めた社会が暴力化する
傾向を(須田先生は)“万人の戦争状態”と理解した。」

ここでいう民衆運動とは大飢饉による米不足、高騰による一揆
打ち壊しのことである。

この打ち壊し、一揆はそれ以前のある種紳士的なものから変化し
次第に、無宿、浪人など「悪党」がリーダーになり過激化、統治機能が
弱体化していた幕藩領主は一般農民にもこれに対抗するために新式の
鉄砲を持って武装化するなど“万人の戦争状態”になった。これは
全国に渡るが、農村部。

江戸ではここまでではなかったということだが、戊辰戦争直前から
江戸府内でも、打ち壊しが頻発し状況は悪化。上野戦争で江戸も
戦場となり「修羅の街」と表現されるような治安状況になった。
明治になってこの時代を経験した円朝など天保生まれの江戸の民衆には、
あの頃の酷かった記憶は共通のものとして認識されていた。
政治的には、もっと大きなものと認識されてしかるべき
「ペリー来航」などは既に忘れられているのに。

幕末史といえば、とかく政治向きの勤王の志士や新選組ばかりに目が
いっており、民衆はこんな状況であったということはほとんど知られて
いない。須田先生の功績であると思われるし、一般に広く知らせなければ
いけないと私は考える。特に江戸・東京の庶民の生活、芸能である落語やら
歌舞伎について考えている者なので。

「状況は秩父事件明治17年<1884年>)のころまで続くと(須田先生は)
論じた。」

「悪党の一九世紀」では明治10年頃までと述べられていたと思うが
その後の先生の研究(「語られる手段としての暴力」『歴史学研究』
2005年)でもう少し後まで延長されている。

さて、この状況の中で
深谷克己は、一九世紀の暴力化する社会であるからこそ「体制の
解体に向かっていく中での、小前・窮民・無宿層の“気嵩な人気と
暴力化”状況に対する為政者・村役人・豪農文人層の教諭的対応の
強まりを反映」し、儒教的「諭」の論理=「教諭的な働きかけ」
拡大していくと述べた。」※1

他の方の研究の孫引きで、言葉が難しい。ちょっとわかりずらいが、続く。

「青木美智雄は、治安が悪化し、社会が不安定になれば、これに抗い、
安定させようとの行為、心性が活性化することは容易に想像出来よう、
と語った。」※2

そして「三遊亭円朝とは、まさにこうした時代に生きた名人噺家であった」
と須田先生。

言葉の説明をちょっとだけすると、「小前」とは、コマエと読むが、
土地を持たない小作農のことではなく、土地を持っている一般の百姓の
こと。土地を多く持ち、名主など村役人職を務めている百姓に対して
使われる言葉。「気嵩」とはキガサ、気の強いこと。

人気(じんき)の悪化、治安の悪化からの揺り戻し。

天保8年(1837年)の一揆の盛り上がりをスタートとして、秩父事件
明治17年1884年)を終わりとする殺伐とした時代は、数えれば
47年間になるのか。

だが、社会すべてが、悪党化していったのではなかった。

それ以前の江戸期二百年の安定していた幕藩体制のお蔭と
いってよいのか。

「為政者・村役人・豪農文人層」こうした人々が揺り戻しの主体。
円朝の兄は冒頭に書いたように坊さんになり、京都の本山で修行し、
寺を一つ受け持つ住職になっている。
円朝が揺り戻し側にいたのは尊敬をしていたこの兄の影響であろう
という見方もある。

「悪党」の仲間に入った一般の百姓の若者も、村へ戻る、
町で働く、あるいは、一部はそのまま博打打ちに身を持ち崩した、
そういう者もあったことはあったろうが。

結果としては明治新政府の為政が安定させた、ということになるのか。

ともあれ。

「幕末、治安が悪化し「人気」が荒れ、暴力化する社会の様相が「怪談
牡丹灯籠」の中に投影されている。円朝は寄席という大衆文化の場に
座り続け、慾の否定、忠義・義理・誠実という生き方を人々に語って
いったのである。」(須田先生)

円朝は明治になり明治新政府の「教導職」というものになっている。

これも「明治政府の国民教導という“呼びかけ”によって円朝の主体は
喚起され、自己実現を企図する(噺家としての出世、自らの率いる、
一門、三遊派を再び江戸・東京落語界での隆盛を手に入れる。「断腸亭」)
中で覚醒し、幕末に創作し「怪談牡丹灯籠」に手を入れ、そこにもともと
あった規範・教諭的傾向を一層強めていったのではないだろうか。」
と須田先生は「怪談牡丹灯籠」の考察を締めくくっている

 

 


※1:深谷克己「東アジア法文明と教諭支配」早稲田大学アジア地域文化
エンハンシング研究センター編『アジア地域文化学の発展』雄山閣、2006年、
のち深谷克己『東アジア法文明圏の中の日本史』岩波書店2012年

※2:青木美智雄、早稲田大学文学部・文化構想学部での講演、2007年

 

 

つづく

 

 


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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より