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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その18

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引き続き、円朝師「牡丹灯籠」速記のこと。

明治17年に「牡丹灯籠」の速記が落語として初めて文字になり
発売され高価であるにも関わらず、売れた。
ちょっと速記について書いている。

速記というと国会などが思い浮かぶ。
今は国会では本会議、予算委員会などに限られるようだが、議事を
今でも速記で記録しているようである。

明治初期から国会開設の運動などと歩を同じくして速記術を
確立しようという動きが始まったのだが、なかなか実用に
足りるような技術になならなかった。
その稽古のために、試しに円朝の許可を得て口演を速記してみた
というのが最初であったようである。

速記の稽古の最初に円朝を選んだのにはむろん意味があろう。
円朝は当時の噺家人気No.1であったのである。

「牡丹灯籠」の速記本は、思いがけない効果も生んでいる。

日本文学史上そこそこ有名な話なので知っている方もあろう。
明治初期の言文一致文学の見本といってもよいものになっている
のである。

二葉亭四迷なども評価し、あるいは正岡子規なども言文一致を
円朝の噺の速記のやうであるべきだ」(明治17年「筆まか勢」
~須田先生)と書いている。

つまり、江戸期まで書き言葉と話し言葉は異なっていたのである。
明治になり、話している言葉を書こうと思っても、書いたことが
ないので、どう書けばよいか、わからなかったのである。
今から考えると不思議なことであるが。

むろん、円朝はそんなことは意図していなかったことであろうが、
円朝作品の質の高さが、当時の中級以上の知識人に知られる
きっかけにもなったといってよいだろう。
先の一編の値段の高さを考えると、読者は寄席にきている職人やら
普段のお客だけではなかったということも透けて見えるかもしれぬ。
これもちょっと皮肉なことになっていく。

明治20年(1887年)から書いたように円朝作品が次々に
歌舞伎芝居になっていく。
なにか、インディーズからメジャーデビューしたかのようである。
自ら賤業といっていた落語家が作った噺を、千両を取った
歌舞伎役者が、演じるようになったのである。

こうした円朝の社会的地位が上がるのと軌を一にして、元勲との
交際も始まる。
そして、実際に本来の寄席のお客との乖離も始まっていく
のである。有名になったり交際範囲が上がるのは、よいこと
ではあろう。円朝もこれは拒否はせずよいこととして積極的に
付き合うようになったのであろう。
が、寄席の客にたいして、高慢になっていった、ということでは
なく客に対する姿勢はあまり変わらず腰は低かったという。
(「円朝遺聞」~須田先生)

もう一つ、この時代「松方デフレ」という不景気、格差の拡大が
広がっていた。その中で出世美談「塩原多助」など「忠義や孝行、
勤勉・節度といった」ものが寄席の聴衆から乖離していったと須田
先生は指摘している。

寄席引退。
明治24年(1891年)、円朝は東京の寄席すべてに出演しない
ことになる。原因は寄席の経営者である席亭との対立であった。

また、当時「五厘」と呼ばれるマネージメントやというのか、
噺家、芸人を寄席に送り込む仲介人というのがいた。ある種、
寄席と芸人を支配する存在でもあった。
円朝はこうした「五厘」とも対立していたという。

円朝三遊派のトップであり一門率いて寄席へ出演しない。
三遊派で、支援者を募り自ら寄席を開業するということを
計画していたというが、門下にこの計画を席亭などにリークする者
があり三遊派も分裂。結果として、円朝と門下一人だけが出演しない
ということになった。

よくあることといえば、そうかもしれぬ。
当時、三遊亭円遊(3代目※)という売れっ子がいた。
名前の通り、三遊一門である。リークは円遊らという。(須田先生)
円遊は「ステテコ踊り」というので一世を風靡していた。
「ステテコ踊り」というのは一席噺を終えると、尻っ端折りをして
半股引(ももひき)を見せて、毛脛を出して踊りを踊るもの。噺の後に
踊りを踊るというのは、今でもどうかするとやる人があるが、珍しい
ものではない。円遊のものは踊りと唄がおもしろかったようである。
鼻が大きく、鼻の円遊などともいわれて、人気者であった。
明治の落語史には必ず出てくる有名人である。
噺ができないかといえば、そんなことはなく「口演速記・明治大正落語
集成」(講談社)(以下「集成」)にはたくさんの円遊口演の噺が入って
いる。特に「野ざらし」である。「野ざらし」は談志家元も楽しそうに
演っていたが、私も覚えたことがある。談志家元などを含めて今に残って
いる「野ざらし」は中で唄(サイサイ節)を歌ったりする明るい噺である。
全編が歌うような調子の春風亭柳好(3代目)、柳枝(8代目)のものが
ルーツといえよう。しかし、元来の「野ざらし」は因縁噺のような暗い
もの、と言われており、明るくしたのはこの鼻の円遊という(「集成」)。
だが、三代目円遊の速記(明治26年「集成」)ではまだサイサイ節は
歌っていない。これが四代目の円遊に伝わり(唄はここか。)さらに
釣り部分が明るくなり(同)、柳好・柳枝という流れなのであろう。

いつの時代にもこういう芸人はあり、珍しいことではない。
爆笑王の系譜といってよいのか。(戦後であれば歌笑、三平。)
円朝は別段円遊の「ステテコ踊り」を否定していたわけではない。
売れるためになんでもするのは、むしろよいことといっていた
という。(「三遊亭円朝の逸事」~須田先生)談志家元なども
いっていたが、出演られるのであればTVにもどんどん出て名を売れと。
なんといっても芸人は売れなければいけない。売れなければ寄席出演の
機会さえないのである。

だがやはり、円朝と門下との乖離は否定できない。
長いものには巻かれろ、席亭や五厘との対立で、寄席に出演られなく
なればすぐに己の生活に影響すると考えるのはあたり前のことである。

円朝明治20年代、新作の発表は寄席ではなく新聞が中心になる。
明治24年明治天皇前での「塩原多助」口演。

明治25年(1892年)大阪の寄席に出演るが健康が優れず東京に
戻っている。「それを知った井上馨は、渋沢栄一ら贔屓筋に話をして、
余生をすごせるように円朝に生活費援助を申し入れる。しかし円朝
これを断っている。元勲や著名人に接近した円朝であるが、進退は
きれいで「江戸っ子」の姿を貫いたといえる。」(須田先生)
よい話ではないか。

明治30年(1897年)東京の寄席、立花家出演。
その後、寝込むようになり、最後の高座は日本橋・木原店、
明治32年、61歳。
「牡丹灯籠」であったという。
翌、明治33年歿。
墓は谷中全生庵全生庵は生前、禅を習うなど強く影響を受けた
山岡鉄舟の創立で鉄舟の墓所でもある。(鉄舟は明治22年歿。)


晩年といってよいのか、ブレイクしてからの円朝明治天皇の前での
口演などより大きな成功も収めるが、孤立への道も同時に歩み始めた。
皮肉なものである。
書いたように、そこまで押し上げたのは、誰あろう寄席のお客。
下町の職人達であった。
彼らが、東京No.1の噺家にしたのである。

爆笑王と正統派はいつの時代にもあって、実際には並立可能である。

戦後も、真打昇進問題から円生師(6代目)と談志師らが一門を
引き連れて、落語協会から脱退。東京の定席に出演なくなる。
いつの時代にも考え方の違いからの、派閥争いは枚挙にいとまがない。
まあ、普通のこと。珍しくもない。致し方なかったことである。
ただ、天保生まれで明治の東京落語の親玉、名作、傑作を多数残した
不世出の落語家の晩年としては、生まれ育った東京の寄席の高座に
上がれなくなったことはやはり寂しかったと想像する。ただ、そのことと
円朝の作者として、演者としての評価は別のことである。

 

 

つづく

 

 

※三代目三遊亭円遊。ステテコ踊りの円遊は一般に初代ということで
定着しており、須田先生も初代としている。実際にはそれ以前に2代の
円遊がいたのははっきりしているようで「集成」では三代目としてあり
これに倣った。

 

 


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須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より