浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その10

f:id:dancyotei:20190317083714g:plain
円朝師。

明治新政府の意向、寄席管理、民衆啓蒙、に沿って、教導職になり、
出世美談「塩原多助一代記」を作り、歌舞伎にもなり、明治天皇の前で
口演、修身の教科書にも載る。

自ら落語家は“賤業”などともいい、明治初年には“猥褻”などとも
いわれていた落語、落語家の地位向上を果たす。

40代の中頃には「落語家中の親玉」といわれるようになる。
当時、独特の言い方であると思うが、まあ、押しも押されぬ
落語界のドンといったところか。

比較的知られていることと思うが、円朝は時の元勲との親交があった。
それもそこそこ密接なものであったようである。
視察旅行に同行していたり。

明治天皇の前での口演も井上馨邸でのこと。
山縣有朋との交流も確認されている。

著名人、名士、お大尽が芸人を宴席に呼ぶことの延長と考えられなくも
ない。だがそれはそれとしても噺家の地位向上を表したものであることは
間違いなかろう。

しかし、で、ある!。

こうした円朝池田弥三郎など国文学系の研究者から『「文明開化に妥協
した」として切り捨てられ』た評価がされてきた。

正直いうと、私などもこういう印象を持ってきたのは事実である。
どちらかといえばこれは後世の評価が厳しいということか。

落語というのは、庶民のもの。
そんな俺たちを裏切って、明治新政府薩長の田舎っぺい達に
尻尾を振って、ってなもんである。

しかし、須田先生は「私はそのような立場はとらない」という。

円朝は政府の“呼びかけ”に“振り向き”覚醒した時点で留まって
いたわけではなく、文明開化という状況(構造)にあわせ自己の芸を
変容させ、さらには噺家・芸人の「悪弊」までも「一洗」し、
自己実現を図っていったのである。円朝という主体の転変である。」と。

これだけでは、なにをいわんとしているのか今一つわからないと思うが
ともかくも、須田先生の研究は円朝の新評価、新解釈ということになろう。

円朝自体は今も国文学研究ではなく落語界では大円朝と呼び、わるく
言うことはまずないと思われる。あるいは噺家に近い演芸評論家の
ような者からも同様であったのではなかろうか。
落語家にとっては円朝は、ある種、不可侵の神ではある。

元勲との付き合い、文明開化に魂を売ったということは
皆、意識し苦々しく思っているが、あえてそこには触れない、
というようなところもあったのではなかろうか。

例えば「文七元結」という円朝作品がある。

「芝浜」とは違い、円朝の後年の作品であることは
はっきりしている。明治22年(1889年)円朝51歳。
円朝は62歳で亡くなっている。)新聞連載が残っている。
最初に高座に掛けられた年月日は不明のよう。

文七元結」は歌舞伎にもなっているし、今でも多くの
落語家によって演じられるし、人気もある。
私も好きな噺である。

談志家元もよく演っていた。
だが。
家元はこの噺はどうしてもわからない、と
演じるたびに、高座でいっていたのを私も聞いている。

家元のいう落語の料簡「落語とは人間の業の肯定である」との考え
からすると娘が自ら吉原に身を沈めて作った金で博打の借金を
返し、生活を取り戻してくれ、という金を、身投げをしようとしている
見ず知らずの若者にくれてやる、というのは、あり得ないと。

志ん生は「俺の娘は、吉原にいてもおそらく死んだりはしない。
だけど、オメエは、死んじゃうっていうから、くれてやるんだよ」
という。

確かに、一応はわかるが、これは落語の料簡(りょうけん)
ではない。そんな奴はいない。
こいつは、昨日まで博打に狂っていたはずではないか。

教導職の使命からであろうか。

「塩原多助」は円朝ライフヒストリー的にもいかにもそういう
文脈で作られたと考えやすい。
文七元結」は「塩原太助」から11年も経っている。

さて、どういうことなのか。
これを解き明かすことが、円朝の理解につながるかもしれぬ。

さて、さて。
そんなことなのだが、もう少し丁寧に円朝師、円朝作品を考えて
みなければいけない。

円朝作品というのは、いったいどのくらいあるのか。

数だけではなくバリエーションも広い。
初期に売れた芝居噺、それから「真景累が淵」「怪談牡丹灯籠」
などの怪談噺、「塩原多助」のような伝記といってよいような噺。
文七元結」のようないわゆる人情噺。海外のものを噺にした
「名人長二」のような翻案もの。
その他「死神」「心眼」「鰍沢」「黄金餅」といった前記分類に
入らない噺、落語。
(この分類は永井啓夫「新版 三遊亭円朝」によるが、分類すること
自体は便宜的なもので本質的な意味はないと思う。「死神」は入れるので
あればむしろ、翻案ものに入れたいように思う。)

今回私も須田先生以外にも資料にあたって「文七元結」に「黄金餅」も円朝作品
であると確認した。数ある江戸落語の中でも不朽の名作であると私は思う。
今も多くの落語家が演っている。やはり流石といってよいだろう。
円朝神説は間違っていなかろう。

ともあれ。

「芝浜」のようにはっきりしない、怪しいものもあるため、
正確な数はよくわからないが、須田先生は「約70点」としている。

では代表作というとなんであろうか。

先に述べた「塩原多助一代記」もその一つにはなろうが、
文七元結」?。いや、そうではない。二つ。

落語ファンの方であれば、お分かりになろう。

そうである。
真景累ヶ淵」と「怪談牡丹灯籠」。

円朝といえば、この怪談長編二作品を抜きには考えならなかろう。

そして、須田先生の論もこの二作品の研究なくしては
むろん、成り立たない。

どちらも作られたのがいつなのか、というのがはっきり
わかっている。円朝作品の特徴であろう。
真景累ヶ淵」は安政6年(1859年)円朝21歳。「累ヶ淵後日の怪談」
という名前で。「牡丹灯籠」は文久元年(1861年)23歳。

どちらも江戸期で20代初期。
ちょうど、師匠二代目円生と絶縁したあとである。

 

 

 

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 


つづく