浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



五反田〜赤羽橋 麻布飯倉野田岩本店・別館その2

引き続き、五反田駅18時38分、都バス反94系統、
赤羽橋行きで、うなぎやの麻布[野田岩]へ向かう。


この五反田駅から赤羽橋行きの都バスには初めて乗る。
私には初めてのところなので、その沿線をみている。



昨日は、五反田駅から坂を上がって高輪台
そして古いランドマーク二本榎、
そこからまた坂を下りて、清正公前まで。


二枚目の江戸の切絵図。



このあたりの東側、海側の図。
「芝高輪二本榎辺図」。


絵図を見ると気が付かれるかと思うが、この界隈、
赤いところが多い。
人名が入った白いところは武家屋敷、灰色が町人の住む町家、
赤は神社仏閣。むろん神社よりも寺がほとんどで、
このあたり、寺町。


清正公(せいしょうこう)様を含め、
寺が軒を連ねているといってよい。


このあたりからは随分と遠い北の方だが、
私の住む浅草あたりも江戸期から寺町で、
今もお寺さんが密集している。


江戸開府当初は江戸の市域はもう少し狭く、
寺々も日本橋やら江戸城に近い中心部にもあったのだが、
人口の増加によって、江戸開府から50年程度たった、
ちょうど大火のあった明暦以降、武家屋敷を作る場所を
求めて、市域を広げ寺社の郊外移転が盛んに
行なわれたのである。


逆にいえば、その頃の郊外が、浅草だったり、このあたり、
ということになるのである。
(あるいは、隅田川の向こうに新しく開いた本所深川。)


さて。


清正公前から、白金高輪


少し上がって、また下る。


下ったところは、魚籃(ぎょらん)坂下。


そのちょい先で、川にぶつかる。
この川は古川。
上には、高速。
橋の名前も古川橋。


魚籃坂というのはこの桜田通り、ではなく、斜めに
南東へ向かっている通り。


江戸の地図では清正公様から古川までは今の桜田通りは
若干違って西に寄っている。


魚籃坂というのは妙な名前だが、これは魚籃寺という
坂の途中にある寺の名前。


魚籃寺というのは、本尊が魚籃観音という観音様。
創建は江戸初期。


さて、古川。


この川はもちろん、東京湾に注ぐが
注ぐ場所は、浜松町、首都高のジャンクションで
お馴染みの浜崎橋あたり。


源はというと、いくつかあるが、一つは
あの童謡「春の小川」の舞台として有名な川。


ご存知であろうか。
私も、一度だけ書いたことがあったと思うが、
古川は麻布から天現寺、広尾、恵比寿とさかのぼる。
恵比寿から北上し、、、というと、どこに行くのか。
もうお分かりであろう。
そう、渋谷。


渋谷から渋谷川となる。


ちょうど、渋谷駅の真下を流れていたのである。
もちろん、今は暗渠。


渋谷からさらに分かれ、御苑の方に真っすぐ北上する流れと
山手線の外側を北上し代々木八幡方向の流れとに別れ
「春の小川」の方は、こちらであったと思うが。


さてさて、古川というと、私はもう一つ
思い出すものがある。


「麻布の古川に、とあるお長屋があって、、」
と始まる噺がある。


噺とは落語のこと。


これは「小言幸兵衛」。


「このお長屋の大家さんが小言が大好きで、
人あだ名して、小言幸兵衛。」と続く。


この古川は、川の名前ではなく、町名と考えた方が
よいのであろう。


次の地図を出してみよう。



この切絵図は「麻布」。


西の天現寺方向から流れてきた古川はちょうど古川橋で
北上し三の橋、二の橋となる。
バスの通る桜田通りは古川橋から川沿いに北上する。


上の切絵図をご参照。お分かりになろうか。
二の橋と三の橋の間。
川の西側に、古川丁という文字が見える。
ここと思えばよいのか。


別段「小言幸兵衛」は麻布の古川町でなければいけないか
といわれれば、他の町でもなんら問題はないとは思われる。
浅草の阿部川町でもよいだろうし、四谷伝馬町でも
よいかもしれない。
まあ、あまりメジャーなところでなければ
OKであろう。
だがなぜだか、皆、麻布の古川で演じる。
不思議ではある。


かなり話がそれてしまった。


桜田通りは古川橋から、古川沿いに、三の橋、二の橋、
一の橋と北上するが、古川は一の橋で直角に曲がり、
東へ向きを変える。


一の橋は、麻布十番


桜田通りはそのまま北上するが、バスは古川に沿って
右に曲がり、中の橋。


私は、終点の赤羽橋まで。


あれ?。


気が付いたら、誰も乗っていない。


みんな、中の橋で降りてしまっていた。




つづく







麻布・五代目野田岩
電話番号:03-3583-7852
住所: 東京都港区東麻布1丁目5−4