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鴻上尚史著「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」その2

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引き続き、鴻上尚史著「不死身の特攻兵 
軍神はなぜ上官に反抗したか」。
(講談社現代新書)

なぜ、特攻なんという非科学的で戦略にもなっていない戦略が
生まれたり、国家総動員の戦争遂行体制、従わないものは
非国民、なんということになっていったのか。

この本の、後半部分である。

もちろん、いろんな考察はあろう。
著者は日本人の特性に原因を求めている。

「世間」というものを大切にし、それを「所与」あらかじめ
与えらえて不変のものととらえている。
その「世間」というものに所属していると集団で生まれる
自我、「集団我」というものになりより強くなる。
そして自ら考えるということも停止する。

日本人にはこういう特性があるため、追い込まれると、
なんの疑問も思わずに、特攻や国家総動員に巻き込まれていく。

指導者側からすれば、そういった特性をうまく利用している
ということなのであろう。

これは戦後、現代まで続いている、と。

日本人論ということになろう。

社会学社会心理学文化人類学社会人類学などなど
関係する学問領域で考えられてきた大きなテーマである。
そして、そうとうに難しい。

「世間」というのは毎日顔を合わせる
自分の“所属”している集団。
この集団は利害を共有している。

古くは稲作を基本とした農業地域社会。
地縁という言い方もされる。

「世間」に対しては「社会」という概念がある。

「社会」は毎日顔を合わさない、道ですれ違う人、
居酒屋で隣のテーブルで呑んでいる人々。
また「世間」は前近代、「社会」は明治以降
近代になって持ち込まれた概念。

明治以降、稲作農業に基づいた地縁社会である
「世間」は、企業などに置き換えられ“社縁”などと
いう言葉も使われるが、現代まで生き続けている。

社会人類学者、中根千絵先生の「タテ社会の力学」などは
私も学生時代に基本書として読んでいる。

戦後70年経ち、私などが社会人になってからも
30年経っているが、どうであろうか、変わった部分も
あろうが日本社会全体とすればいまだに継続している
のではなかろうか。

このあたりのことが最近の学術分野でどのように
議論がされているのか。私自身あまり情報を持ち合わせて
いない。(あまり議論されていないのかもしれぬ。)

多様性、ダイバーシティーなんという言葉が
会社でもよくいわれるようになっているが、
変わっていない日本企業では、どうもやはり
言葉だけが踊っているような気がしてならない。

業績がよい時であれば、多様性、いいんじゃない、
ということになろう。
だが、業績がわるくなり、なんとしても数字を
作らねばいけない、という局面になると
そんなことは途端にどっかへいってしまうであろう。

戦争を遂行するために、すべてを総動員する。
特攻でもなんでもする。同じである。

東芝の「チャレンジ!」といって不正な数字を
作り続けた、なんというのも多かれ少なかれ
どこの企業でもある話しであろう。
日産など自動車会社の品質試験の不正、
直近では高層ビルの免震装置の試験結果の
偽装も然りであろう。
納期を守る、結果としては会社の業績を
達成するためには、不正でもなんでもする。
マネジメントが知っていたか。知らなかった
かもしれぬ。現場や現場に近いところの
思考ストップである。

不正に至らなくとも、数字の達成のためには
運命共同体として、なんでもする。
もちろん、営利企業であるから数字の達成は
あたり前の話ではあるが、問題はそのやり方、
部下の反応の仕方なのであろう。
パワハラ、それに伴う組織全体として思考ストップ、
という反応をしてしまう。議論は受け付けない。
崩れかかっているかもしれぬが終身雇用を背景にした
“多様性”とは反対の方向に行きがちなメンタルがあることは
事実であろう。

ちょっと横道にそれるが、最近韓国の企業と付き合う
機会があったが、こんな傾向はあちらの方がもっと強い。
財閥系の大企業などは顕著であろう。
トップが黒といえば、白いものも黒。
思考ストップである。
会議の場で一番上席の者が発言するまでは、下の者は
一切発言はしない。日本でもこういうことはなくはないが
韓国企業ではよくあることである。

「世間」というのも同様だが韓国ではもっと強いシバリがある
のではなかろうか。スキャンダルが出た歌手や女優が
自殺に至る例がよく聞かれるがそれも一例かもしれない。
私自身、実証的にもあるいは、学問的に韓国社会を熟知している
わけではないのでいい加減なことは言えないのだが。

さて。

ここまでは、まあよいのである。鴻上氏の論に賛成である。
ある程度皆様も頷かれることであろう。

問題はなぜ、こんなメンタルに日本人はなったのか、
ということである。

これがかなり難しいのである。
社会論、文化論に歴史、さらに地政学的な要因が加わり
そうそう簡単には結論は出せないのである。

先にも書いたが、こうした「世間」感覚を
著者は、農耕で結びついた地縁社会に求めている。

そしてさらにこのメンタルが“日本だけのもの”という理由に
他民族に征服されたことがないからということを
挙げている。

また「世間」というものを所与で不変のものとして
受け入れてしまうメンタルを、地震や風水害などの
天災が多い不可避な自然環境のもとに暮らしているから
という論を展開している。

そうであろうか?。

 


もう一回、つづく