浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



日本橋室町・蕎麦・利久庵

3月28日(火)昼


午前、東京駅付近。


12時すぎ、ミーティング終了。


さて、昼飯。


今日は決めていた。


日本橋室町の[利休庵]で納豆そば。


このところ、日本橋界隈を頻繁に歩いているが、
ずっと頭にあったのである。
暖かくなってきて、食べ時。


あれは、うまい。


東京駅付近から日本橋室町もむろん目と鼻の先。


外濠通り、呉服橋の交差点から一石橋を渡って常盤橋の交差点。


一石橋というのは南詰に「満よひ子の志るべ」という
古びて欠けているところもあるが大きな石碑がある。



これは東京都指定の有形文化財
建てられたのは幕末の安政4年(1857年)という。


いわば迷子さがしの掲示板。
探す方は特徴などを書いて石に貼る。
心当たりのある人は、その旨を書いて貼る。


これは近隣の町名主などが相談して建てたものであるという。
当時迷子は多く、今であれば、警察がその任にあたるのであろうが、
町名主が建てたのいうのはちょっとおもしろいかもしれぬ。


町人同士の自治あるいは互助という位置付けとして考えることも
できるかもしれぬ。


ただ、町名主というのは町人であるが、今でいう
町会長というよりは正式な江戸町奉行所配下の役人という
役割を持っている。この町名主のさらに配下には、
落語などに出てくる大家さん=家主(いえぬし)がいる。
家賃の取り立てなどもしたが、家主も町奉行所の正式な役目
なのである。今の、借家を持っている大家さんとは
違っていたのである。


自治、互助と奉行所の正式な住民管理、さらに警察が一体化し、
かつ、住民一人ひとりの身近にあったわけである。


現代は警察は警察、区役所などの住民管理は住民管理。
町内会はあるところもあり、ないところもある、任意組織。
分化、専門化しているのはよいが、穴だらけ、ということであろう。


この枠組みは為政者の管理、統制しようという意志が強ければ、
監視社会というようなことになるのであるが、
むろん、そういう意図で作られた制度であると
いってよいが、運用としては、住民達の自発的な
自治、互助の意志が発揮されていたといってよいのではなかろうか。
「満よひ子の志るべ」見ているとそんな気がしてくる。


ある種の奉行所の指導のようなものはあったのであろう。
しかし、仮名で書かれた石碑の文字や、そこに連絡用の
紙を貼る、といった使われ方を見ると、当時の町人たちの顔が
見えてくるようではないか。
管理統制と自発的な自治、互助がうまく調和している
ように思うのである。


江戸から学ぶこと、現代にも多くある。


閑話休題


一石橋を渡り、常盤橋の交差点。
右前方は日銀。
耐震のためであったか、工事中。


外濠通りを渡って、日銀正面の通り。
まだ若い桜並木で江戸桜通りと名前がついている。
ほんの一輪二綸だが、開花している。


日銀の先、左が石造りの立派な三井本館、右が三越
その間を抜けて、中央通りに出る。


[利休庵]のある通りはもう一本右。
日本橋からは二本目、で、あった。


鰹節の大和屋の角を入って、一本通りをすぎて
[利休庵]は左側。


硝子戸を開けて入る。
まさに昼時、
にぎわっている。


一人、といって、お姐さんに指示された
ところに相席で掛ける。
相席の相手は、私よりは若かろうが、そこそこの年齢と見える
女性一人。OLさんのよう。
食べているのは、納豆そば。


お茶がきて、むろん、納豆そばを頼む。


お客の回転は速い。


サラリーマンだけでなく、比較的年齢が高めの
女性の一人客も目に付く。


隣のテーブル。
椅子に掛けて、いつもの、といった、女性。
六十は越えていようか。


聞いたお姐さんが、花巻にえび天ですね、と応える。


頼んだものは必ずしも粋ではないが、なかなかな振る舞い。


きた。



これが[利休庵]名物、納豆そば。


ねぎと、溶きがらしも入れ、よく混ぜて、すする。


ここのそばは白い更級系。


私は納豆そばなど、ここ以外ではほぼ見たことがないし、
食べた経験もない。
しかしなぜ、こんなにうまいのであろうか。


入っているのは、納豆にもみ海苔、表の山本海苔のものらしい、
卵黄、花かつお


つゆが特別なのか。


うまい、うまい。


瞬く間に、食べ終わる。


勘定をして、出る。


ご馳走様でした。


あ、あ、あ、、、もうちょい、なんか食べたいな・・・。












利休庵





中央区日本橋室町1-12-16
03-3241-4006