浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



新橋と新橋駅前ビル・ビーフン東 その2

3月23日(木)昼

引き続き、新橋。

昨日は新橋という地名の由来について書いてきた。

明治期には、今の銀座7〜8丁目も新橋と呼んできたが
烏森にできた国鉄の駅名になって今のJRの駅周辺を新橋と呼ぶ
ように変わってきた。

東京の地名というのは新橋同様、国鉄の駅によって
明治以降、妙な変遷をしている例が他にもある。

例えば、上野。

上野というのは、今は駅周辺広く上野であるが、
江戸期には、今の上野公園、上野の“山”のみを
上野と呼んできた。

では松坂屋などのある広小路などは何と呼ばれていたか。
下谷である。上野広小路ではなく、下谷広小路。
区の名前であったが、広く下谷、なのである。

あるいは、東京駅前の八重洲
八重洲というのは江戸期には、今と反対側、丸の内、皇居の
お濠そばのことであった。
そしてそこを通る通りが八重洲通りと呼ばれ、東京駅の反対側に
通じていたのである。線路の向こうには外濠があって、
八重洲通りが外濠に架かっている橋を八重洲橋と呼んだ。

開業当初、東京駅の正面ではない日本橋側には出入口はなかったのである。
だが、やはりこれでは不便なので、出入口を作った。
名前は近くにあった橋の名前から取って、八重洲口とした。
戦後、外濠は埋められ、八重洲日本橋側の町名にまでなった
のである。

これも国鉄の駅によって地名が動いてしまった例。
駅の威力、恐るべし。

閑話休題

新橋に戻ろう。
もう一度地図を。

江戸の地図


現代

江戸の地図を見ていただきたい。
街の成り立ちを見てみると、北側に昨日書いた、
芝口御門と汐留川、さらに西につながって、外濠になるが幸橋御門。

そして、芝口御門(新橋)から南、浜松町方向に大通り。
これは今は第一京浜で、東海道になる。ただし東海道は正式には
札の辻から先になるのだが。

ともあれ、ここは江戸のメインの街道筋といってよい。
江戸の地図ではこの通り沿い両側に灰色の町屋がずっと並んでいる。
その西側に並行する裏通りが、日影町通り。
片側が武家屋敷で日陰になるので、日影町。
片側だけのいわゆる片町で、このまま浜松町まで
街道に並行している。

日影町通りには江戸期には街道筋のことであり、
参勤交代の侍用の江戸土産、浮世絵、伽羅(きゃら)の油、
書物、剃刀(かみそり)、剣術道具、古着等々を売る店が多くあったという。
この界隈、江戸期から大店も多くある繁華な通りであったわけである。

その奥は、武家屋敷。
大名小路」なんという表示も見えるが、丸の内の大名小路に対して
こちらは愛宕大名小路
あの、名奉行の金さん「遠山金四郎」の名前も見える。

昨日烏森の芸者町のことに少し触れたが、
おそらく、江戸期には芸者町というよりも、私娼のいる岡場所
という言い方の方が正しかったであろう。
地図を見ると、烏森稲荷は武家屋敷に囲まれていたが、
稲荷社の境内という扱いでモグリの商売がされていた
のではなかろうか。

明治に入り、武家屋敷が解放された。
日影町通りなどは、古着やから洋服店などにかわっていったが、
江戸から引き続いてにぎわった通りであったようである。

また、同時に商店だけでなく、当時流行の牛鍋、キャフェ
などもできるようになり、文明開化、そして、
今の新橋に続く、繁華な飲食店街になっていった。

講座

また、昨日書いたように、明治末には後に新橋駅になる
烏森駅が開業し、烏森界隈はよりにぎわいを増したのであろう。

さらに、私自身詳らかに一次史料等を検証したわけではないが
駅前周辺のさらに西、あるいは北は、官庁街の虎の門、内幸町に
隣接し、明治大正とオフィス街としての顔もできていったと
想像される。

さて。
震災、戦災と二度の焼け野原を経験し、戦後となる。

山手線のどの駅も規模は違えど似たり寄ったり、
駅前やガード下は闇市となったわけである。
上野御徒町アメ横、神田駅、有楽町東口、飛んで新宿。
そして、ここ、新橋。

実のところ、昨日書いた、二つの駅前ビルと、烏森側の
ニュー新橋ビルは闇市の痕跡といってもよいもの。

駅前ビルができたのは、昭和41年。
ニュー新橋ビルは遅れて同46年。

それぞれ、それまでの闇市にあった店舗を中心に
これらのビルに入居している。

昭和41年と46年と、戦後随分と時間が経っているのは、地権者、
住人(店の経営者)等々の利害の調整に時間がかかった
と思われる。

闇市とその後というのは、私はむろんリアルタイムでは
見知っていないので、詳らかにはわからない。
ヤクザ、的屋、その他、文字通りアンダーグラウンドの世界とも
密接に関わっていたのであろう。

上野御徒町アメ横は私の地元でもあり、
闇市というのは、いったいなんだったのか、
私にとっては大きな宿題ではある。

私が、闇市の断片のようなものに触れたのは、有楽町であった。
(「町歩き」の講座で有楽町を調べていて。)

有楽町は交通会館、さらに交通会館と有楽町駅の間の
今は道路になっている細いスペース。(すし屋横丁といったよう。)

有楽町の場合はGHPの本部が近くの第一生命ビルに置かれており
「オフ・リミット(日本人立ち入り禁止)のクラブ、キャバレーが
軒を連ね、
闇物資横行や闇酒もガード下の飲み屋でひそかに
飲み交わされてい」(イトシア)たという。

有楽町の交通会館も今はだいぶ変わったが、
少し前までやはり、新橋駅前ビル、ニュー新橋ビルと
似たような匂いがしていたように思う。





つづく