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国立劇場3月歌舞伎公演・伊賀越道中双六 その2

dancyotei2017-03-22


3月20日(月)春分の日

引き続き、国立の「伊賀越道中双六」。

12時開演、16時半まで。
序幕から大詰までの五幕構成になっている。

序幕は物語の発端。

敵討ちのお話なので、とある武士が殺されるのが
発端となる。

敵の方は当然、殺した動機から、
悪者として描かれるわけである。

敵討ちをするのは、殺された武士の息子。
そして、娘の婿(これが荒木又右衛門)が助太刀をする。
これが道中双六というくらいで、敵を求めて鎌倉(江戸)から東海道を、
沼津、富士川、岡崎など駒を進め、上がりが、仇討場所の
伊賀上野となる。(そう、ロードムービーのよう。)

ざっくりいうとそんなお話である。

これだけであればまだわかりやすかろう。

仇討(あだうち)、敵討(かたきう)ちというのは、
江戸期、歌舞伎だけでなく、講談などなどでも
人気のお話といってよいものであった。
落語には「花見の仇討」「宿屋の仇討」なんというのもあるが、
これは仇討のパロディーのようなもの。

歌舞伎では例えば、曽我兄弟の敵討ち。
曽我ものなどといわれているが、正月の興行は
曽我兄弟の仇討を扱ったものを演ることになっていた
時期があり、かなりの数の曽我ものが作られている。
今月、歌舞伎座海老蔵が演じている「助六」も
実のところ、曽我ものの一つ。
まあ、こうなったら、仇討ものということよりも
曽我ものは一つの様式になってしまっていた
ということではあろうが。

ただ、現代においては仇討、敵討ちそのものが
もはやわかりにくくなっているのではなかろうか。

池波先生なども、なぜ敵討ちがあったのか、を
丹念に説明をしている。

例えば身内なりが殺されたのだから敵を討つ、
ということであるが、殺した方は裁かれないのか、
という疑問が出てこよう。

武士どうし、なんらかのトラブルがあって、
片方が片方を殺してしまう。
殺した方は、自首をし、裁かれるというのが、
江戸時代にあっても法治国家であり、制度としては
正しかったわけである。

しかしこの時、殺した方は、仮に逃げてしまう。

ご存知の通り、江戸期の我が国は、諸藩が全国にあって、
これらはいわば独立国。警察制度も別々。
その藩の責任において運営がなされ、犯罪者が他国から
入ってきても捜索逮捕する義務はなかったのである。

殺した者は逃げ徳。
(まあ、高飛びというやつである。)

一方、殺された方の家は、当主が武士どおしの争いで
命を取られたというのは、武士としての落ち度であって、家は取り潰し。
跡継ぎがあっても、そのまま継承することはできない。
浪人となる。なかなか厳しい。

ただそれではあまりにも可哀そうなので、
敵を討ってくれば、家の再興が認められる。
これが救済策として、制度として認められていたのである。

自分の藩に仇討願いを出し、認められ、浪人となって仇討の旅に出る。
この仇討願いは、全国の藩で共有されていたというのである。
遠いところで敵を見つけた場合も、その地の役所に届け出て
確かに敵であることを確認して、いざ尋常に勝負、と、なったわけである。

目的が、家の再興なので、父や兄の敵以外は認められない。
妻や姉妹の敵討ちというのは、制度外なのである。

また助太刀というのは認められていたが、敵討ちの資格を持っているのは
あくまで本人。よく止めをささせる場面などが時代劇に出てくるが、他の者が
代わりに敵を討っても認められないのである。

池波作品にもたくさんの敵討ちものが登場する。
浪人になったので、収入はない。
敵討ちに出た当初は親戚やら、援助もあって、なんとか食いつなぐが
1年2年、3年、5年と経つうちに、忘れられ、病にもかかろうし、
気力もなくなり、、なんということもあったであろう。
様々なドラマが出来してくることになったわけである。

逃げる方、追う方、それぞれたいへんである。

逃げる方も、常に追われているので気が休まらない。
それならばいっそのこと、返り討ちにしてしまおう、と自ら
捜して、戦いを挑む。反対に相手が強すぎると、相手を見つけて
その後ろを見つからぬように付いて旅をする。
これならば、絶対に見つからぬ、と。

話しが「伊賀越」から離れてしまったが、
敵討ちというのは、そんな具合に、たくさんのドラマがあったので
江戸期から人気があったのであろう。

芝居に戻ろう。

この話しを少しわかりにくくしているいのは、最初に書いた、
親の敵討ちということだけではなく、当時の世相を
反映した対立が背景にあること。

それぞれを支援する後ろ盾があったのである。

この仇討は実のところ、史実である。

伊賀上野、鍵屋の辻で仇討が行われたのは、寛永11年(1634年)。

ご存知の通り、1600年が江戸開府。
大坂冬の陣が1614年。

その後、20年ほどである。

徳川幕府のもとに、世の中は収まったのだが、
まだまだ戦国の遺風というのも残っていた。

当時の江戸幕府の旗本というのは、とにかく威張っていた。

勝てば官軍というのか、徳川将軍直参、つまり直属の家来で、
形の上で将軍の配下になった全国の外様大名もいわば同格である、
というくらいの誇りを持っていたのである。

殺される方は外様の備前岡山池田藩の家来。
敵(かたき)は同じ藩の同僚なのだが、これがなんと
旗本屋敷に逃げ込んでしまう。

それで事件は、岡山藩池田家 VS. 幕府旗本 の対立という
図式までエスカレートしてしまうのである。

芝居では、このあたりも多少描かれているが、
本筋とはあまり関係がないという配慮か、詳しくはない。
それが逆に、余計わかりにくくしてしまっている
かもしれない。

それこそ、少し前までは、江戸初期、この頃の
旗本とは、どんな風であったかというのは、
誰でも知っている常識であったのかもしれない。
(歌舞伎にもあるが 水野十郎左衛門
VS. 幡随院長兵衛
旗本奴 VS. 町奴も、そんな旗本が威張って江戸の街を
闊歩していた頃の話しである。)


つづく

 

 

文政5年 (1822年)・江戸中村座 伊賀越道中双六 和田志津馬 初代中村源之助