浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



中村芝翫襲名披露・十月大歌舞伎 その4

dancyotei2016-10-18

引き続き「外郎売」に関する疑問。
二つめ。


なぜ成駒屋の晴れの芝居に
音羽屋の松緑が主役を勤める芝居があるのか。
このことであった。


これは明確には分からず私の想像も多少含まれている。


昨日書いた、松緑(先々代)が尾上菊五郎(六代目)に預けられたのと
同時期に早くに親を失い、寄る辺がなく、同じ菊五郎
を頼ったのが芝翫(先代)、だったのである。


芝翫松緑は一門は違うが共通の師、菊五郎を介して、
兄弟弟子の関係で、それもかなり近い関係であった。
(年は松緑の方が15才上。)


この二つの家の関係はその後も続いたようである。
つまり、芝翫家と松緑家は二代、三代に渡って
世話をしたりされたり、そんな関係であったようなのである。
(ご通家の方、合っていようか。)


当代、四代目松緑という人は12才で父を、
14才で祖父を相次いで亡くしている。
ちょうど先代芝翫の若い頃と同じような
境遇であったのである。


当代松緑の第一の後見は音羽屋一門の親方である、
七代目菊五郎であることは間違いはないのてあろう。
しかし、名実共に成駒屋の親方格になった当代芝翫
縁浅からぬ家の後輩である松緑を盛り立てたい、
という意思があるのかもしれない。


歌舞伎の世界というのは、たとえ名門の出であって、
役が付かなければどうしようもない。
厳しい世界、なのである。


さて。


一幕目を延々と書いてしまったが、いよいよ二幕目。


「口上」、で、ある。


祝いの引幕が開いて裃姿で平伏した面々が居並ぶ。


中央に、俳優協会会長、坂戸藤十郎
やはり、この人が筆頭なのであろう。
口を切ったは藤十郎


藤十郎の左隣に、橋之助改め八代目芝翫
その左に三人の息子。同時襲名。
これは珍しいらしい。
藤十郎の右隣が、人間国宝、立女形坂東玉三郎


間があって、両端。
上手が菊五郎。下手が、吉右衛門


芝翫の上の世代の大看板はこんなものであったか。
幸四郎は今国立で忠臣蔵だった。


團十郎も、勘三郎も亡くなってしまった。


そういえば、芝翫の兄、福助は?。


現在リハビリ中という。
私が歌舞伎を観にくるようになってから、
女形といえば、いつも福助であったが、、、。


やっぱり、橋之助改め芝翫
あなたの肩にかかった重さは、
今の歌舞伎界そのものかもしれぬ。


勘九郎七之助もまだ若い。
染五郎もこれから。


成駒屋だけでなく、歌舞伎そのものも
あなたが引っ張っていかなければならなくなってしまった。


是非是非、身体だけは気を付けて。


さて、三幕め。


「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)「熊谷陣屋」。


夜の部では、芝翫としてはこれが目玉であろう。
熊谷直実を演じる。


私、この芝居は初見。


宝暦元年(1751年)大坂豊竹座で人形浄瑠璃として初演。
並木宗輔作。歌舞伎でも同年すぐ、江戸、大坂で
上演されている。


人形浄瑠璃からの作品で丸本物(まるほんもの)という。


同じく、丸本物の代表作「仮名手本忠臣蔵」が、
寛延元年(1748年)初演なのでそのすぐ後。
ほぼ同時期といってよろしかろう。


一(ノ)谷というだけあって、源平の戦いを扱っている。
全体で五段構成。
それこそ、忠臣蔵ほどではないが長い話しのほん一部。


例によって話しはわかるが、作品としての
よしあし、評価はしない方がよいのであろう。
(しかし、これ通しで演ることがあるのであろうか。
文楽では少し前にあったようだが、
歌舞伎ではあまり聞かない。)


その上でちょっとだけ、感想を書く。


結論からいうと、私、やっぱり丸本物はダメ、
かもしれない。


私の好きな黙阿弥などよりも時代が古い。
そして上方の作者によるもの、だから、か。


同じく人形浄瑠璃から移行した「菅原伝授」などにも共通するが
“君”のためにわが子の命を犠牲にする、という話。
私には、どうしても入り込めない。


ついでにいうと、前にも書いているが、
私の場合「忠臣蔵」も五段目、六段目は納得がいかぬ。
腹を切ってしまう勘平は、あまりにも間抜けであろう。
このような評は、江戸の頃(江戸後期)から既にあって、
私だけの感想ではないのである。
江戸も後期になるともはや近代人である。
不合理な筋はとても受け入れない。
そういう人も既にいたのである。


ともあれ。


この芝居は下の役者絵にもあるように、古くから
成駒屋(三代目中村歌右衛門)の得意とする演目で
昨日書いた、いわゆるお家芸ということ。


一般には成駒屋女形の家といわれているが、
立役としての顔も以前にはあって、この芝居では
芝翫型という名前までついている演出を八代目は演じていた。


一度、通しを八代目の座頭で観たいのだが、
いかがであろうか。








三代目中村歌右衛門 熊谷次郎直実。
文化8年(1820年)9月、江戸中村座
歌川国貞画 ウィキペディアより