浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座6月大歌舞伎・義経千本桜 通し その4

dancyotei2016-06-08


引き続き「義経千本桜」の通し。


「いがみの権太」の「すし屋」が5時20分頃終了。


「狐忠信」の三部は6時15分開演。
30分前に開場。


またまた、劇場内に残っていてもよいのだが、
やっぱりちょいと、出る。
さすがに、もう弁当は買わずに、ビールとコンビニの
サンドイッチとおにぎり。


さすがに「市川猿之助宙乗り狐六法相勤め申し候」の
三部は、満席。


私の席も中央のブロック。


幕開きは所作事「道行初音旅」。


佐藤忠信実(実は源九郎狐)と静御前の主従の道行を
踊りで表現している。後半はちょっとしたコメディー調の
立ち回りがあって幕。
それでも一時間近くある、長いものではある。


源九郎狐は猿之助静御前染五郎


染五郎の踊りはもういうまでもない。


猿之助
立役(男役)として白塗りをしないのは
私は初めて観る。
この人、表情が豊かなのである。
基本、おどけたもの以外は、踊りというのは、
無表情、すまし顔が普通なのだと思うが、
それでも猿之助はなにかを伝えたいような
表情をしているようにみえた。


さて。


いよいよ「狐忠信」「川連法眼館」。


義経千本桜」四の切。


四段目の最後という意味である。


シノキリ。


すべての浄瑠璃ものの四段目の最後は“四の切”というわけだが
歌舞伎で、ただシノキリというと、この「義経千本桜」を指す。
それだけ、長年に渡って人気があり、役者たちも切磋琢磨をしてきた
ということである。


下手、花道のちょうど真上あたり。
天井に張られているワイヤー。





アップ。



これで吊られるのか〜。


幕が開き、芝居が始まる。


猿之助佐藤忠信という義経の家来と、忠信に化けた
源九郎狐という役柄を分けている。


忠信から早変わりで、白い衣を着た、源九郎狐登場。


源九郎狐は両親の皮を使った鼓を義経に情けでもらい
嬉々として、跳ね回る。
ここいらあたりからの、猿之助のまた、表情の豊かなこと。
宙乗りに向かって、盛り上がっていく。


従来の音羽屋形では登場しない、先代猿之助考案の演出なのであろう、
捕り方のキャラクターなども登場する。


話しが進み、源九郎狐の宙乗りは最後、鼓を抱えて、
飛び去って行くということになる。


下手花道前から、ワイヤーでするすると
遥か天井まで上がっていく。


嬉々とした表情はそのまま、三階席、天井近くを
徐々に大向こう方向に。


場内はライトアップ、桜吹雪が舞い散る。


場内、割れんばかりの大喝采
もはや、四代目、澤瀉屋オモダカヤー)の掛け声すらいらない。


幕。


我知らず、感動の涙が出てきていた。




現、猿翁、三代目猿之助が昭和43年に初演した澤瀉屋形の
四の切が、四代目に受け継がれ、2013年には既に100回の
舞台を数えていた。


当代猿之助歌舞伎座新築になってから、歌舞伎の殿堂である
歌舞伎座へは出演をしてこなかった。(08年10月〜14年12月)
自らなのか、諸事情あったからか、両方か。
わからぬが、梨園中心からはあえて距離を置いていたという。


この背景には澤瀉屋猿之助家の初代にまでさかのぼる
因縁がやはりあるのであろう。


ちょっと込み入っているが、初代猿之助からの歴史を
簡単にさかのぼってみる。


初代猿之助安政6年江戸浅草の生まれ。
十三代目市村羽左衛門の弟子から九代目市川團十郎の弟子となるが
他の弟子とのトラブルから小劇場で師匠に無許可で「勧進帳
を演じ破門。旅回りをしながら辛酸をなめ、
明治23年ようやく破門を解かれ、復帰、名代昇進、初代猿之助を襲名。
ここで初めて澤瀉屋が生まれている。


二代目は初代の長男。生まれた浅草千束には今も猿之助横丁の
名前が残っている。
二代目も欧米留学をするなど当時の歌舞伎役者としては
異例の経歴をたどり、映画への出演、新作歌舞伎への挑戦、
戦後も新派との交流など幅広い活動をしていた。
昭和38年、死期を悟り、直孫に猿之助(三代目)を譲った。
(その弟が四代目段四郎で亀次郎(当代猿之助)の父)。


三代目猿之助は襲名後すぐに、祖父と父(三代目段四郎)を
亡くし、歌舞伎界で後ろ盾を失う。
歌舞伎界というのは、門閥の力というのがなによりも大切。
例えば、市川宗家成田屋)、あるいは名門尾上菊五郎家(音羽屋)
など歴史がある家でなければ、芝居の実力があっても
役すらつかない。
述べてきたように、澤瀉屋は明治に初代か新規開業し、
二代目には大きな一門になった。
だがしかし、江戸から続く、成田屋音羽屋に比べれば、
名前においてはよほど新参者。庇護者がいなければ、どうにもならない。


そこで、三代目猿之助が考えたのは、四の切宙乗りから始まり、
ヤマトタケル」などのスーパー歌舞伎につながる路線。
歌舞伎界本流からは様々な批判もあった。
だが、自ら芝居を起し、お客を集め旗を揚げなければならなかった
のである。(実子香川照之との関係もこれらと無関係では
なかったのであろう。)


そして三代目は03年、病に倒れ、
08年、弟の子亀次郎に猿之助を譲った。


こういう澤瀉屋の歴史背景があって、今月の、四代目初めての
四の切、歌舞伎座での披露となっていると、
私にはみえた、のである。
まさに一世一代の四の切。
これは涙なしには、とてもみられまい。


読みすぎかもしれぬ。


だが、三代目猿之助、迫力がケタ違い。
やっぱりすごい役者、だと思うのである。






嘉永1年(1848年)江戸、市村座国芳
狐忠信 四代目市川小團次


澤瀉屋以前にも四の切の宙乗りは、ちゃぁ〜んと
あったのではある。





お仕舞。