浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座秀山祭九月大歌舞伎 通し狂言 伽羅先代萩 その2

dancyotei2015-09-24


9月22日(火)夜



引き続き歌舞伎「伽羅先代萩」。


4時半開演で、終わったのが9時15分頃。
やはり、長丁場であった。


観終わって、まず第一番の感想は、
かなりわかりやすかった、ということであった。


お家騒動ものというのは大方想像できよう。
そう、正統系 vs. お家乗っ取り派、ということに
尽きる。


それで、お話は勧善懲悪、最終的には正統系が勝利して、
めでたしめでたし、ということになる。


この「伽羅先代萩」もまったくその通りで、
弱い立場に立たされている幼少の正統若様が
乗っ取り派の様々な圧力に耐えて最後には勝利する。


単純といえば、単純な話。


歌舞伎といえば、複雑怪奇なストーリーであるのが
むしろ普通なくらいのなかで、こんな単純なのは
珍しいともいえるかもしれない。
(これはおそらく後で述べるが、この作品がこの形に
定着した明治という時代のせいかもしれぬが。)


さて。


皆さんは、千松(せんまつ)という言葉をご存知であろうか。


この芝居の最大のキーワードといってよろしかろう。


今は死語になっているといってよいと思うが、
千松とは“空腹”のことを指した、
慣用句であったのである。


お手近の辞書を引いていただきたい。
ちゃんと載っているのを発見できると思う。


歌舞伎ファンで「先代萩」をご覧になった方は
千松がなにか、むろんご存知であろう。
この芝居の特別重要な登場人物、それも子供の名前である。
そして千松がなぜ空腹のことを指すのかもお分かりになろう。


私はこの芝居を観る随分以前、芝居の筋を知らなかったが、
慣用句としての千松というのを知っていた。


実は、私のホームグラウンドである落語には
よく出てくるのである。


例えば、文楽師の「うなぎの幇間」の冒頭。


街で出くわした旦那を取り巻こう(たかろう)と
する幇間(たいこもち)の一八(いっぱち)が、
「わたくし、ばかな千松、空腹の君、なんですよ」といって、
うなぎやへ連れて行かせる。


あるいは、談志家元の「居残り佐平次」佐平次のセリフ。
他にも例はたくさんある。


幇間だったり、ちょっとしたお調子者、通人気取りのような者が
口にしそうな言葉であったのであろう。


この「先代萩」が今の形になったのが、明治の中頃。


歌舞伎の登場人物の名前が慣用句になるくらいなので、
明治後期、大正の頃、おそらく大人気の芝居であった
のではなかろうか。(裏を取っていないが。)


先の文楽師の「うなぎの幇間」も談志家元の「居残り」も
時代設定は、明治である。


さて、この空腹の千松の出てくるのは、
三幕目の御殿の場。


通称、飯(まま)炊き場という。
ご飯を炊くので、飯炊き場。


正統系の若様は鶴千代という。
おそらく4〜5歳。


この若様を養育している、乳母(めのと)が
政岡(まさおか)という。これが玉三郎である。


政岡はむろん、鶴千代を守り立派に成人させて藩主に
したいと考えている。


政岡には鶴千代と同じ年恰好の男の子がおり、
若様の近習というような位置づけで、一緒に育てられている。
この子の名前が、千松なのである。


鶴千代君は、乗っ取り派から毒殺を仕掛けられている。


御殿の中でも周りは皆敵。
そこで、用意される食事はすべて危ないと
政岡は考えて、一切食べさせない。


御殿の鶴千代の居間には、茶室にあるような茶釜があり
これで湯を沸かすくらいのことはできる。


なんと玉三郎の政岡はこの茶釜で、飯を炊くのである。


実際に舞台上に茶釜があって、本物の白米もあり、
米を研ぎ、釜にかけ、ただむろん本物の火はないし、
実際にまさか炊いてはいないが。


この一連の米を炊く所作を、茶の湯の所作のように
優雅にする、のである。
政岡役の、これが一つの見せ場になっている。


炊きあがったご飯は、おかずがないので、
おにぎりにして、二人に食べさせる。


ただ、これも毎日はできない。
三日に一度程度。


それで常に、鶴千代と千松は空腹、なのである。


政岡は、千松に、武士の子であるから、ひもじいことぐらい
我慢しなければいけないと教える。


それで千松のセリフ「腹はすいても、ひもじゅうない」
というのが出てくる。
幼い子供のこと、こういう言葉が出てくるのだが
今ではやはり忘れ去られているが、
当時かなり有名なセリフであったようである。


空腹の二人幼子が、お腹が減って、ご飯が炊けるのを
「ままは、まだかいなぁ〜」といって待っている。
健気でもあり、また、微笑ましくもある。





つづく









再板 伽羅先代萩御殿之図
嘉永6年(1853年)江戸 豊国画