浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座十月大歌舞伎 通し狂言義経千本桜 その5

dancyotei2013-10-17



長々書いてきてしまったが「義経千本桜」通し狂言

昨日は四幕の『木の実』『小金吾討死』と五幕の『すし屋』まで。

昨日の最後に「菅原伝授手習鑑」の『寺子屋』

を引いて、この話のテーマは
<恩を受けた主君に報い、自らの子供の命を捧げる。>
である、と、書いた。

『すし屋』で仁左衛門演じる、いがみの権太は、維盛の若君と
妻の若葉の内侍の身代わりに自らの妻子を差し出す。
そして、ひょんな行き違いで、権太の父、弥左衛門の手にかかって
死ぬ。

ここで、多くの仁左衛門ファンの女性の涙を大いに誘うのである。
(実際に、私のまわりでもなん人ものお姐様方が、涙をぬぐっていた。)

「菅原伝授」の『寺子屋』と作者も年代も一緒で、むろん、
詳細は違っているが、通底するのは、無条件での君への忠、ということ。
(これには自らの命はもとより、妻子の命まで犠牲にする、というもの。)

同じテーマを同じときに別の作品に、言葉はわるいが、
使いまわしている。

まあ、それだけ、受けた(共感された)のであろう。

以前に「菅原伝授」『寺子屋』で黙阿弥の「三人吉三」と
比較して考えてみた。

この「千本桜」や「菅原伝授」の頃から120年後、黙阿弥の「三人吉三」では
既に近世的な“忠”から自立した(江戸的)近代メンタリティーになっている、
というようなことが論旨である。

現代おいて、君へ、無条件で命を差し出す、忠、ということを
主張する人は、この日本でさすがに少なかろう。

お姐様方の涙は、舞台上でこと切れようとしている、
二枚目の仁左衛門様、かわいそう、、の涙で、別段、
君への無条件の忠を肯定しているのではあるまい。

ただ、やはり、以前にも考察した通り、日本人にはとっても
馴染み深いコンセプト、であることは間違いない。

今回、浮世絵を並べてみたが、文化文政期、幕末、さらに
明治に入っても、この芝居は繰り返し上演され、あまつさえ
明治期でも工夫がされブラッシュアップされている。

これは以前にも考察した通り、明治以降の揺(ゆ)り戻し、あるいは
第二次大戦中であればなおさら、君に忠は、国是ですらあった。
幕末期であっても、おそらく大衆には少なからず共感されても
いたのであろう。

また、エンターテインメントとしてこういう、君に忠、というのを
観てしまうというメンタリティーも日本人にはあるように思われる。
死にゆく仁左衛門に涙するお姐さまというのはそういう風に
みることができるかもしれない。(水戸黄門の単純な勧善懲悪に
無邪気に喜ぶのに似ているかもしれない。)

さて。

大詰(おおづめ)、『川連法眼館』。
別名、四ノ切(しのきり)。

人形浄瑠璃の四段目の切(お仕舞い)、という意味である。
人形浄瑠璃はお話しはまだ続くのだが、歌舞伎の場合は通しで演る場合も
ここを大詰の幕とする。

この幕は序幕の『稲荷前』から現れていた佐藤忠信(実は)
源九郎狐に落ちが付く。

まあ、落ちが付いて、お仕舞い、という、いってしまえば
そんなところ。

これは狐忠信の浮世絵を二枚。
どちらも幕末。



嘉永6年(1853年)江戸、河原崎座 画豊国
狐忠信 二代目嵐璃かく
(1853年は、聞き覚えのある年号かもしれない。
そう、ペリー来航の年。)



嘉永1年(1848年)江戸、市村座国芳
狐忠信 四代目市川小團次

二枚目がおもしろかろう。
なんと、縄が張られた宙乗り(ちゅうのり)、で、ある。

イヤホンガイドで解説をしていたが、狐忠信の演出には
二系統あり、音羽屋型と澤瀉屋(おもだかや)型という。

音羽屋は、尾上菊五郎家で、澤瀉屋市川猿之助家。

今回は菊五郎なので音羽屋型。

調べ切れていないが、この幕末の四代目小團次が「義経千本桜」
『四ノ切』狐忠信の、宙乗りの元祖なのか。
宙乗りだったり、早変わりといった、仕掛けによって
目を驚かせるものを、歌舞伎用語でケレンという。

市川小團次という人は、文化文政、天保から、幕末にかけての役者で
黙阿弥とのコンビで出世をした人だが、このあたりのケレンも大得意とした役者。
また、小團次に限らず、この頃には、こうしたケレンが流行り、
どうすれば観客を驚かせられるか、様々な工夫を凝らし、皆が
競っていたようである。

音羽屋型は、ケレンを廃した型。
澤瀉屋、当代猿之助も今年、四国の金毘羅歌舞伎で
宙乗りの狐忠信を演じているよう。)

どちらがよいのか、澤瀉屋型を観ていないのでわからないが、
個人的には、宙乗りの方が、おもしろそうである。

狐の件の結末は、解説などで語られているような、
動物でも愛情がある、的なことでは、ちょいと、納得はできない。
江戸の人々だって、そうだったのではなかろうか。
(今でも、動物映画は安全パイで、いつでも誰にでも受ける、
というようなことか。)

どうせ、エンターテインメントならば、徹底的に演った方が
おもしろかろう、で、ある。
(個人的には、序幕から延々と振られた狐の複線の結末が、
これか!?、と感じたのが、正直のところであった。)


さて。

断腸亭の「義経千本桜」通し狂言、観劇記、このあたりで
読み切り、で、あるが、最後に少し、まとめておこう。

序幕の『稲荷前』は華やかに幕が開き、狐の複線があり、
歌舞伎の見せ場、荒事も入る。
二幕目『渡海屋』『大物浦』では血だらけ壮絶な吉右衛門の仰向けの入水。
三幕目『道行』は軽く、おやすみ。

四幕目五幕目『木の実』『小金吾討死』『すし屋』では、
       男前、仁左衛門の、人情噺。
大詰『四ノ切』狐の種明かし。

総じて、深く考えず、エンターテインメントとして軽く愉しむべき
演目、と考えるのが正解のように感じられてきた。
荒事、所作、アクション、東(吉右衛門)西(仁左衛門)の世話物。
バリエーションに富んでいて、飽きずに観られる。

と、くると、最後の狐は、派手にドカ〜〜ンと、驚かせてもらうのが
やっぱり当世風かもしれない。