浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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江戸期の落語 その1

12月8日(土)深夜

さて。

土曜日。
今日は一日、調べもの。

内容は落語、それも初期の。

落語というのは、寛政10年(1798年下谷稲荷で
初代可楽(当時山生亭花楽)らが寄席を初めて開いた。
一応のところ、これが現代に続く落語のスタート
といってよいのだと思う。

で、これはまあ、比較的人口に膾炙していることなの
だと思う。

その後、幕末まで70年くらいある。
現代の落語家または、評論家などが落語の歴史について
語るとき、次に出てくるのは、おそらく、圓朝の頃。

圓朝などと呼ばれるが、三遊亭の系統(いわゆる三遊派)の
巨頭で、人情噺を中心に多数の作品を世に出しており、
落語中興の祖、といった位置付けだが、主として活躍したのは
明治に入ってから。

つまり、この間。
下谷稲荷で初めての寄席が開かれてから、幕末まで
江戸期、落語というのは、どんなふうに出来上がっていったのか。
例えば、どんな人がいて、いつ頃どんな噺ができたのか。

明治以降は、書かれたものも多く、圓朝意外のことも
知られていることは多いのだが、江戸期のことは、意外に
知られていない。

これを調べてみようと思ったのである。

主として、今日は、どんな人がいたのか。

寄席が始まり、職業として噺をするプロができた寛政の頃。
名前が出てくるのは、先の、初代花楽に加えて、初代圓生

この後、基本は皆がこの二人の弟子になっている。

圓生門で、初代馬生。

可楽門は多く、初代(林屋)正蔵、同じく(朝寝房)夢羅久、同じく(船遊亭)扇橋他、
現代に続いている名前も多い。

この内、扇橋はその弟子の初代柳橋を含め、
その後、三遊派に対する大きなグループになる
柳派に続いている。

このあたりまでが、第二世代といってよかろう。
時代的には、寛政の後の文化文政期といったイメージ。
まだ、黎明期であろう、これで30年程度ある。
落語自体まだまだ、一般化していなかったのか。

そして、噺家の名前の数が多くなってくるのが、その次の世代。
時代的には、天保の頃。

天保といえば、老中水野忠邦天保の改革が有名だが、
この時に、閉鎖を命じられた寄席の数が、江戸市中で
200以上ともいう。当時、寄席は正確には、寄場(よせば)と
呼ばれていた。(その後、ただ寄(よせ)と呼ばれるようになり、
寄席の字をあてるようになったと思われる。)

当時の寄席では、落語だけでなく、講談、義太夫、声色(こわいろ)、
芝居などの役者の物真似、などなど、落語以前からあった様々な芸能も含めて、
行われていた。
天保の改革で主として槍玉に上がったのは、娘義太夫というもの。
義太夫は、若い女性がやる義太夫で、寄席に付属して茶屋があり、
まあ、早く言えば、岡場所に近いような、いわゆる“サービス”があったよう。
これが、天保の頃には社会問題化していたのも事実らしい。
ただし、天保の改革はわずか4年でとん挫しており、その後すぐ
寄席は復活している。)

ただ、寄席の演目での一番人気は、やはりこの頃、
既に落語であったという。つまり天保の頃には、江戸落語
作品も含めて、一先ず、出来上がっていた、とみてよいのだろう。

ちなみに、落語は当時は、咄(はなし)という言われ方が一般的で、
(なぜか)昔し咄、そして、落とし噺などというのが一般的であったようである。

第三世代になる天保の頃というとこんな人々。

圓生門で二代圓生、二代馬生(初代五明楼玉輔)、
初代(蝶花楼)馬楽、初代(三升亭)小勝、初代瀧川里かん、
圓朝の父親になる初代立花家圓太郎など。

可楽門で、二代可楽、二代むらく、三代文治、二代正蔵など。

初代可楽門、船遊亭扇橋門から、初代土橋亭里う馬、初代善馬、
先の初代柳橋、二代柳橋、初代柳枝など。これが柳派の元。
着々と勢力拡大していったのがわかる。

もう一つ、この頃には今では残っていない司馬派という隆盛を
誇ったグループがあったよう。
司馬派は初代圓生門から出て、初代司馬龍生、二代目龍生、
この人は先の初代里う馬。

さて、その次が、弘化、嘉永安政、など幕末までが区切りに
なろうか。ペリーが来て騒々しい幕末、で、ある。

この頃になると、圓生門(三遊)は衰えをみせている。
志ん生が二代目、三代目、それから四代目馬生。
志ん生圓生門の名前であった。また、志ん生よりも馬生の方が
古い名前であった。)
(三代目談志がこのあたりにいる。圓生門のようだが詳しいことは
わかっていないよう。)

可楽門は、三代可楽、幕末に爆弾可楽として名前が残っている四代可楽。
正蔵門で四代正蔵

柳派の方が、一段と盛り上がりを見せ、初代柳橋門から出て、
初代春風亭柳枝(柳枝は天保の頃には名が出ていたよう。)
同じく初代梅枝、二代柳枝、二代柳亭左楽、初代談洲楼燕枝など。

特に、初代の柳枝という人が柳派の指導的位置にあり名前を上げていた
ようである。

柳派といって、ご通家であれば、小さんは?と思われるかもしれない。
そう、今の柳派の大名跡は、小さん。

江戸期には小さんというのは、まだ大きな名前にはなっていない。
初代は春風亭小さん。この人は初代柳枝門でその後の四代目むらく。

小さんの名を大きくしたのは二代目。
嘉永の生まれで、活躍したのは明治。圓朝と同時代といった方がよい。
燕枝門下で柳家小さん。後に禽語楼(きんごろう)小さんを名乗った。

まとめると、寛政時代の初代可楽、初代圓生から始まり、
可楽門から正蔵、さらに今の柳派につながる一門が生まれ
幕末にかけて隆盛した。圓生門は二代で若干沈滞。
明治の圓朝を待たねばならない。

こんなことではあるが、落語家の一門、系統は、歌舞伎などに比べると、
明治以降同様、この当時から、いい加減なところもあり、喧嘩をして
師匠を替える(一門が替わる)ということもさほど珍しくも
なかったようではある。(噺も今もほとんどを共有している。)

さて。

今回は、どの噺がいつ頃できたのか、まではたどり着いていない。

断片的だが、いわゆる滑稽な落とし噺に加え、
声色、物真似など、以前からあった芸が合成された、
道具などを使う、芝居噺なども生まれていたようではある。

また、志ん生門などは、講談の方にも近く、初代は小猿七之助
二代目は鼠小僧(蜆売り)などを得意にしていたようで、既に
近い関係であったのも確かのよう。
また、人情噺も既に三遊、柳、問はず、生まれて、演じられていた
ようである。

まだ、仮説、ではあるが、現代に残っている
江戸古典落語というのは、ほとんどは、この
寛政から幕末までの70年ほどの間に出来上がっているのでは
なかろうか、ということ。

明治以降の新作というのは、圓朝のものも含めて、
明らかに時代がわかるものがあり、数は知れている。

これらを除けば、ほとんどが江戸生まれ、と、いうことになる。
いや、逆に、江戸に生まれたものが、現代まで残っている、
と、言った方が適切かもしれない。
(そして、これらのほとんどは、滑稽な落とし噺、ではある。)

このあたり、作品のことはまたの機会に。