浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



丼もの考察 その4

dancyotei2012-02-14



引き続き『丼もの考察』なのだが、
昨日から、浅草六区のことについて、書いている。



問題は『楊弓店』。


楊弓(ようきゅう)、というのは、
ご存知であろうか。



時代劇にもまあ、出てきているので、
知っている方もあるかもしれない。


座って射る弓である。
お姐さんがいて、当たったら、大当たり〜、なんて
太鼓を叩いていたり、、。


が、まあ、それは名目で、二階で、そのお姐さんが
お客を取ったわけである。
江戸の頃の名前でいえば、岡場所。
むろん非公認、で、ある。
(江戸では吉原のみが公認、千住、板橋、新宿、品川の
各街道一つ目の宿場、四宿(ししゅく)が“黙認”の女郎街。)


その楊弓店が、浅草六区のこのあたり、
この明治30年代にもあったのである。


特に、昨日述べた、十二階下あたりから、
北の千束、吉原方向にかけて『魔窟』などと呼ばれ、
樋口一葉の『たけくらべ』などにも書かれているし、
断腸亭永井荷風先生はルポのようなものも書いている。
楊弓店以外にも、銘酒屋(めいしゅや)という言い方をした
業態もあり、これは下は居酒屋、二階で、、、というもの。


時代的には、これらは震災までで、その後、
芸者となり、観音様の裏手へ。
また岡場所機能は、隅田川の向こう玉ノ井(これも
荷風先生の『墨東綺譚』などにも出てくる。)へ
移って赤線になり、この六区界隈からはなくなった、という。
(芸娼分離などというが、芸者の鑑札と娼妓の鑑札があり
お上とすればこれを分けておきたかったのである。)


まあ、あまり、胸を張れる歴史ではないので、
表立っては、だれも触れたがらない浅草、なのかもしれぬ。


が、しかし。
私が思うに、人間、本来いかがわしいものであるし、
それがあっての浅草であると、思っている。
これが浅草の土地の記憶、というものである。


今でも、多少のいかがわしさは、浅草にはある。
ただ、近くにスカイツリーという新名所ができても、
どこにでもあるようなテナントビルだけで
埋め尽くさないでほしい、と思うのでは、ある。



横道が、長くなってしまった。



丼ものに、戻ろう。



次は大正に入る。
大正は4年。


やっと、食い逃げでないものが、出てきた。


主婦向けの料理レシピ。


ものは『豚のカツレツ』。
“毎日の惣菜”という料理レシピの連載記事のよう。
写真もなく、8行ほどの短いものだが、
カツレツを家庭で作るようになってきた頃
なのであろう。


また、明治末から大正の、平塚らいてう、らの女性解放運動が
盛り上がっていたこともこうした記事が
掲載されていたことの背景であろう。
らいてう、は、他ならぬ読売新聞に『新しい女』を
執筆していたりもしていたようである。


次は、翌大正5年。


これは広告。



神田通新石町 和可奈すし店


御前すし 金十五銭


親子丼 金二十銭



ついに出た!、親子丼。


広告だからか、仮名が振られていないでの
おやこどんなのか、おやこどんぶり、なのかは、
わからない。しかし、とにもかくにも、親子丼の文字が
読売新聞に初めて登場している。


ちなみに、通新石町は、とおりしんこくちょう、と読む。
今の神田須田町あたり。
今、この場所に和可奈という鮨店はないが、
この屋号は、都内各地に点在している。


しかし、鮨やで、親子丼というのは、ちとヘンではある。
まさか、酢飯の親子ではなかろうが。


次は大正8年で、やっぱり親子。


“演藝あさぎ幕”という小さな連載(風)記事。
芸能面ともいえるようなところ。


『二個の親子丼(おやこどんぶり)』という見出しの
短いもの。


國太郎、菊次郎は揃って親子丼(おやこどんぶり)好きだった。
國太郎が死んだ後でも、菊次郎がこれをあつらえると、
チャンと二つきた。


ちょっと、いい話?。


(國太郎は河原崎國太郎で、菊次郎は尾上菊次郎
ともに歌舞伎役者で、この頃相次いで亡くなっていたよう。)


ここでの振り仮名は、おやこどん、ではなく、
おやこどんぶり、で、ある。


さて。
次は、大正10年。


『華府へ(四)』というタイトルのちょっとした連載記事。
この回の見出しは“将軍様と鰻丼”という。


華府は、私も知らなかったが、米国のワシントン
のこと、で、ある。(華盛頓で、ワシントンと読ませたようである。
その、華に京都府の、府をつけて、華府のよう。)


サブタイトルに“鹿島丸にてT生”と添えられている。


この記事、時代背景から説明しなければいけない。
大正10年、1921年
第一次大戦後、前年に国際連盟ができ、
ワシントン軍縮会議がこの年開かれている。


この日本の主席全権が船でワシントンまで向かう
船中からの同行記、のようである。
首席全権は、加藤海相、幣原駐米大使、そして、
徳川家達貴族院議長ら、であった。


見出しの“将軍様”は徳川家達のこと。
家達は、いえさと、と読む。
むろん、この頃は将軍様ではない。
徳川家達は、最後の将軍、慶喜の次の徳川宗家の当主。
かの天璋院篤姫に育てられた人である。
この頃も含めて、長期にわたって貴族院議長を
務めていたのである。


で、その将軍様が船中で鰻丼を食った、とまあ、
それだけといえば、それだけの話。


『君、ひとつ、そのうなぎどんぶりというものを


早く頼むよ。』

と、徳川全権はいったとかいわないとか。


ここには船で食べられるものとして、
鰻丼(うなぎどんぶり)、天丼(てんどん)、親子(おやこ)
松茸めし(その他)と、出てくる。


鰻丼に加えて、天丼、親子まで登場。
もう既に、この頃には、言葉も含めて、
ほぼ定着していたといってよいのだろう。


ここまでで、わかったのは、明治初めには鰻丼、次に天丼、
大正に入り親子丼が、それぞれ一般化していた。
そんなところであろうか。



と、いうことで、また明日。