浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



日本橋室町・そば・利休庵

7月30日(月)昼


さて、月曜日。


昼、日本橋本町。


こう暑いと、もうなにを食べようか、
頭がまわらない。


だがまあ、やっぱりここか。


そばの[利休庵]。


もちろん、納豆そば。


地図を出してみよう。


例によって、江戸の地図も。



日本橋の北側。


なん度も出しているが、やはりこのあたりは
江戸の最も重要な街といってよいところなので、
書くべきことも多い。


日本橋の北河岸は江戸橋までご存知の通り、
江戸人の台所、魚市場、魚河岸であったわけだが、
今回は魚河岸ではなく、室町と本町について書いてみたい。


今の中央通りが南北に少し斜めに通り、
その両側が室町になっていた。
日本橋の北詰から北へ順に室町一丁目から三丁目まで。


通りの両側が同じ町というのは東京ではほぼ
なくなってしまったが、古くからのお約束である。
京都中心部や大阪中心部などでは今も残っている。


三丁目の西側が越後屋
今の、マンダリンオリエンタルと三井本館。


ご存知の通り越後屋は「現金掛け値なし」で
一躍売り出した呉服店であったわけだが、
両替商にも進出、幕府の金庫番にまでなっていった。


越後屋の西隣の一画は金座、今の日本銀行


今の日本銀行の区画は江戸期よりも北へ
広がっており、マンダリンオリエンタルの角の交差点からの
通りも行き止まりになっている。


江戸期にはこの通りが奥州街道の起点であった。


こういうとちょっと唐突に思われるかもしれない。


今、国道として東北に向かう本道は国道4号である。


国道4号日本橋から始まり、中央通り、つまりここを通り、
室町三丁目の交差点を右に曲がる。これは江戸通り
昭和通りを左に曲がり、ここからは昭和通り
国道4号になり、上野、北千住となる。


江戸期にはまず常盤橋が奥州街道の起点といってよい。


今、常盤橋というのは3本ある。
江戸通りの新常盤橋、南側の常盤橋。
その間に、現在修復中の旧常盤橋。
この旧常盤橋が、江戸期の常盤橋の場所。


ここの濠は日本橋川であるが外濠でもあった。
つまり江戸城外郭で、常盤橋御門という見附、
江戸城の防御施設であったわけである。
修復中の旧常盤橋にはその見附の石垣が残っている。


ここから金座の脇を通り、北へ向きを変えながら浅草橋、浅草見附を通り
(御)蔵前、浅草、山谷、南千住(小千住)、千住大橋
北千住(千住宿)。これが奥州街道であったわけである。


今の江戸通りと並行しているのだが、浅草橋までは
江戸通りよりも通り二本南から東にずれていた。


江戸期にはこの外濠からの奥州街道沿いの両側が
本町で一丁目から四丁目まで。
今の日本橋本町は室町の東側に室町と同様に江戸橋から
北に向かって一丁目から四丁目まで。直角にずれている。


江戸期の本町も室町同様、目抜き通りといってよく
やはり呉服店、そして特に二丁目から三丁目は薬種問屋が
軒を連ねていた。
これが今の日本橋本町に武田や、アステラスなど
製薬会社の本社が集中していることにつながっている。


さてさて[利休庵]であった。


利休庵は今は室町一丁目だが、以前は裏に入ったここは
本小田原町関東大震災以前、魚河岸があった頃は
魚河岸の中心地で多くの魚介関係の問屋が軒を連ねていた。


[利休庵]の創業は戦後すぐの昭和27年(1952年)。
震災後、魚河岸は築地に移転しているので、戦災後の
魚河岸の跡に店を開いたということになろう。


[利休庵]は昼もにぎわっている。


今日は連れもいるが、相席で座る。


連れは、もり。私はもちろん、納豆そば。



そば自体は、もりも納豆も、白い更科系。


納豆そばにのっている、削り節と海苔が
美しいではないか。


どちらも、最上のものではなかろうか。
魚河岸がここにあったからであろう。


海苔は山本海苔他、鰹節はにんべん、大和屋など
魚河岸から残っている店がある。


この場所で、いい加減な海苔や削り節を
使うわけにはいかないはずである。


玉子は卵黄のみ。


これもポイント。
まあ、もったいない使い方ではあろうが、
味がぼやけるので、やはり白身
抜いた方がよろしかろう。


よくかき混ぜて、食べる。


やはり、味の塩梅は絶妙である。


いや〜、うまい、うまい。


ご馳走様です。


勘定をして出る。



[利休庵]の納豆そば、間違いなく、
日本橋室町の味である。






利休庵





中央区日本橋室町1-12-16
03-3241-4006