浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



路麺・山田製麺所 ~トーハク「風神雷神図のウラ」

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2月8日(金)

今日は、東京国立博物館(トーハク)の「風神雷神図のウラ」
というのを観にいくことにした。

これは通常の展示ではなくトーハクのミュージアムシアター
というバーチャルリアリティーによる映像展示。
トーハクにこういう展示施設があることも知らなかった。

そして、もう一つ。

寒いので、温かい立ち喰いそば。

立ち喰いそば・路麺、で、ある。

立ち喰いそばの中でもチェーンではない個人営業のところを
「路麺」と呼んでいる。
拙亭近所の小島町に「アヅマ」

という店が長らくあってお世話になっていたのだが、
昨年であったか、閉店し、今は更地になっている。

歩いても数分のところにあったので、週一回は大げさだが、
かなりの頻度で、朝、食べていた。

路麺といっているチェーンではない立ち喰いそばで
個人営業の店は個性があって、魅力的なところが
ほとんど。
「アヅマ」さんはお客は入っていたと思う。しかし「人手不足のため」と
貼り紙がされていたが、薄利な商売で経営はたいへんであったのかもしれぬ。

このところ行けていなかったのだが、戦後、台東区千代田区といった
下町を中心にした都心部の街にはこのような路麺が数多くあったのだが、
やはり段々に数を減らしている。

とはいっても、拙亭のある元浅草から自転車でちょいと行ける
範囲にはまだ2~3の路麺がある。

トーハクにいくのであれば、北上野にある[山田製麺所本店]
というところが便利。
ご近所以外の方はあまりご存知ではないと思うが
清洲橋通りの入谷交差点の少し手前の通りを東側に
入ったところ。

これも数を減らしていると思われるが、製麺所の自家営業の路麺。
台東区というのは製麺所も多かったと思われる。)

かなり年季の入った店の中。

春菊天そば。

閉店してしまった「アヅマ」ではほぼこれ一本であった。
久しぶり。
ここはゆで置き麺なのだが、時として、ゆでてすぐの
ことがあり、これがなかなかの味であったのだが、
今日は残念ながら、ノーマルなゆで置きであった。

とはいえ、久方ぶりの路麺、満足。

食べ終わり、鶯谷、JRに架かる坂の凌雲橋を登って、上野の山へ。
左側が寛永寺輪王殿、右がトーハク。
ぐるっと表にまわり、門前に自転車をとめ、チケットを買って
入る。

ミュージアムシアターというのは入って右にある
東洋館の地下。13時からの回を狙ってきた。

説明のお嬢さんが出てきて、上演開始。

さて、これ、なんなのか。

この画像は尾形光琳の「風神雷神図」の一部だが、
この屏風の裏に酒井抱一の「風雨草花図(通称:夏秋草図屏風)」が
描かれていたということ。
もちろん、私は知らなかったが、一般にもほとんど
知られていないことではなかろうか。

尾形光琳の「風神雷神図」の全体はこれ。

東京国立博物館蔵(ウィキペディア

酒井抱一の「夏秋草図屏風」というのはこれ。

東京国立博物館

トーハクブログ

どちらも重文で、どちらも二人の代表作であろう。

酒井抱一という江戸琳派の絵師は、姫路藩酒井家に生まれた人。
将軍家斉の命で既にあった尾形光琳の「風神雷神図」の裏に
「夏秋草図屏風」を描いていたのである。
今は、保存のため別々になっているらしい。

驚きである。

表の「風神雷神図」は金箔の上、裏の「夏秋草図」は銀箔の上。
雷神の裏には雨に降られる夏の草花、風神の裏には
風に吹かれている秋の草花が描かれているのである。

光琳享保に亡くなっているが、江戸でも前期の人。
抱一は文化文政期に活躍した人で江戸の後期。光琳没後50年ほど後に
抱一は生まれており、同時代には生きていない。
しかし、抱一は光琳を師と仰いでいた。

むろん例外はあるが、このことは我が国の絵、いや我が国の
ほとんどの表現芸術の本質を端的に表しているといってよろしかろう。

風神雷神図」は江戸初期俵屋宗達に始まり、光琳、抱一、
鈴木其一らによって継続して描かれている。

模写と言ってしまえば、それっきりだが、先達や師の作品を
受け継ぎ、そこに自らの表現を重ねるのが我が国の
表現芸術形式だったのである。

落語にしても歌舞伎にしても伝統芸能は今もすべてそうである。

明治以降に変わっているが、和歌、俳諧など短詩形文学も
然りであった。

この光琳の「風神雷神図」と抱一の「夏秋図屏風」は
物理的にも重ねられているのである。
これほど顕著な例はなかろう。
まさに奇跡といってよい。

抱一の生まれが譜代名門の酒井雅楽(うたのかみ)家でなければ
こんなことはなかったかもしれぬ。
町の絵師にはこんなことはさせなかろう。

そんなことも含めて、我が国のかけがえのない
大切な大切な、二曲一双の屏風である。
日本文化史、絵画史の中の貴重な事実として刻み込まれて
しかるべきであろう。

 


#トーハクで風神雷神2019

東京国立博物館・ミュージアムシアター

山田製麺所本店
03-3841-0322
台東区北上野2-17-7

 

 

 

 

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ちょっと戻るが、月曜日から。

2月4日(月)

上野に出たついでに、久しぶりにアメ横の魚や。

このところ、ここへきてもあまりピンとくるものが
なかった。
いつもあるのだが、今日は鯵を買ってみることにした。

たまにあるが、いつもの倍の、一山、1000円。
だが、15匹はあるだろうか。
大きさは、まあ中型。

まずは刺身であろう。
しょうがは新鮮なものがよいので、買って帰る

一匹はこんな感じ。

おろしてみる。

三枚。

べら棒によい、ということもないだろうが
今の季節なので、鮮度は問題ないだろう。

4匹ほど。

三枚から皮を引いて、縦に切る。
鯵刺しはいつもこの切り方。

うん。
脂がのっているということもないが、
まあ、まあであろう。

この日はここまで。

翌日。

鰺はまだまだある。

これはもう、フライしかあるまい。

アジフライ、イワシフライは好物といってもよい。
うまいもんである。

午後、出たついでにキャベツを買う。
もう春キャベツ。
150円程度であったか。
まあ、適正価格であろう。

大量に千切り。
極細を心がける。

水に放し、1時間。
春キャベツだからか、もともと水分が多いよう。
水にさらしても、めざましくシャッキリした感じには
ならない。
水を切って、冷蔵庫へ入れておく。

さて、鰺を開く。
ただ、開くのは簡単ではない。
できることはできるのだが、上手とはとてもいえない。

まず、尻尾側の皮にあるゼイコを取る。
頭を落とし、腹を裂き、はらわたを取る。
頭側、腹の奥の中骨の上に刃を入れて、腹骨を
切りながら尾側へ刃を動かしていく。
この時に大名おろしにならぬように、中骨ギリギリ、
中骨に触れるように身をそぎながら。
尻尾まで。

ここまでは、まあよい。
この後、中骨を外すのが、今一つわかっていないといってよい。

同じく頭側の今度は、中骨の下に刃を入れ、
骨をはずしていく。
大名おろしでよいのであれば、一気にこのまま尻尾まで
切ってしまえばよいのかもしれぬが、きれいにできそうもないし
慎重に少しずつ中骨をはずしていく。
尻尾まできて、身をひっくり返して、中骨を切り落とす。

一応できた。

こうして、時間をかければ開けるのだが、なにかあまりスマートな
感じがしていない。特に中骨を下側の身からの外し方。
手早くきれいに開くコツのようなものがありそうなのだが。

山ができた。

衣づくり。

小麦粉(てんぷら粉)、玉子、パン粉。

玉子にはてんぷら粉も少し入れてある。

できた。

温度計の付いた安いものだが、天ぷら鍋を買ってみた。

余熱をしている間い、新聞紙、揚げ箸、など揚げる準備。

魚なので、高温、比較的短時間でよいだろう。

170~80℃をキープ。
狐色になるまで。

揚げたら、油が切れるようにしばらくは立てておく。

枚数があるのだが、鍋がこの大きさなので
一枚ずつしか揚げられぬのがちょいと効率がよろしくない。

すべて揚げ終わる。

キャベツを盛り付け、アジフライを三枚。

ソースは、マヨネーズ、ケチャップ、ウスターソース
ミックス。

アジフライ、イワシフライにはいつもこれ。

ソースをかけて、

食べる。

まあまあ、であろう。
魚フライは微妙な揚げ加減をさほど気にしなくとも
よいので、そうむずかしくはない。

だが、ほかほか、ふっくら揚がった。

うまい、うまい。

 

かつ丼考察 上野・蕎麦・翁庵

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2月5日(火)昼

かつ丼、で、ある。

かつ丼が食べたくなった。

やはりかつ丼は周期的に食べたくなる。

東京でかつ丼を食べようとなると、まずはそばや、で、ある。

いつもであれば、拙亭同町内、春日通りと左衛門橋通りの
小島町交差点の角にある、そばや元浅草[砂場]

そばとミニかつ丼のセットがあってよく食べている。

ただ今日の昼飯はちょっと時刻が13時をすぎてしまった。
この店は、ご飯だったりカツの用意が十分でないのか、
13時をすぎると、なくなっていることがよくある。

他のそばやをあたらないといけない。

この界隈、以前はもう少しそばやがあったのだが、
やはり減っている。
また、以前のように昼夜通しで営業し、ご飯ものを含めて
いつも同じものがあるという店も、少ない。

昼夜通しでお客がくるところでなければならない、
ということであろう。

さて、ではなぜ、かつ丼はそばやなのか。
これも不思議である。

そばやでは、普通自分ではかつは揚げていないところが
ほとんどであろう。おそらく肉やから買っている。
(元浅草[砂場]のかつは自家製。)

ではかつならば、本職のとんかつやにもあってしかるべきだが、
ほとんどのとんかつやには、なぜかかつ丼はない。

謎である。

これは以前にも明治初年からの丼物を中心にした新聞記事を調べ、
これを元に考えたのだが、
結局わからなかった。

ただ、この時にも書いているが、かつ丼の元祖は
最近閉店してしまったが早稲田の[三朝庵]といわれていた。
ちょっとした偶然で生まれているようだが、大正7年

だが、今回調べてみると、ウィキペディアには 新説が出ている。

明治30年代後半、甲府のそばや[奥村本店]であるという。

ただ、明治は45年まで、明治30年代後半というのは随分と古い。

そもそも、それであればカツレツが洋食やから独立して
とんかつやが生まれたのよりも早くなる。
私は、とんかつやが生まれてから、かつ丼が生まれた、
という順序であったと考えていたのである。

とんかつが洋食やのカツレツから独立したのが明治の終わり。
上野の[ぽん多本家]の創業が明治38年
同じく上野の[蓬莱屋]は大正元年
[蓬莱屋]の最初は屋台といい、[ぽん多本家]は今でも
とんかつやではなく洋食やを名乗っている。
すると、カツレツの独立は[蓬莱屋]の大正元年というのが
現存する店では最も古いと思われる。

明治30年代であればとんかつを経ないで、洋食のカツレツから
ダイレクトにかつ丼が生まれたことになるではないか。

いや、それならばそれで、新説であるがリーズナブルである。
(とんかつやにかつ丼がないことの傍証にもなるか。)

早稲田の[三朝庵]もとんかつではなく、宴会用の余った
カツレツを玉子とじにしたという。

だが、とんかつより前に、かつ丼が生まれていたのは少々驚き。

明治27年、8年が日清戦争、37年、8年が日露戦争
この間あたりか。

カレーライスにしてもカツレツ(とんかつ)にしても
明治以降の我が国の食文化史を考えるのに、全国民に一般化したのは、
軍隊食からというのも一つであることは間違いないと考えている。
(今もカレーライスは海上自衛隊の名物であるし、カツレツは
大正15年調査の陸軍の人気メニューの1位であった。

一方で町の洋食や、飲食店というのももちろんある。
どちらかが主ということではなく、両方相まって、
一般に広まったということだったのかもしれない。

ともかくも、かつ丼の誕生が明治30年代から大正10年前後、
さらに一般化は昭和初期とかなり幅がある、ということは
頭に置いておきたい。

そして、なぜそばやなのかも、依然未解決である。
甲府にしても、やはりそばや。

洋食やのカツレツが、ダイレクトにそばやに入り、
かつ丼になったというのには、もう少し、考証が必要
であろう。

そばやには、そばつゆがあり、これで玉子とじにし、ご飯に
載せたことは、比較的考えやすい。
ただ、順番として、同じ丼物の玉子とじである、親子丼が
先にあったはずなのである。(人形町玉ひで]など江戸からある
軍鶏鍋やが親子丼の発祥と考えている。)

そして、もう一つ、飯はもともとそばやにはなかったはずである。
今も、例えば、浅草並木[藪蕎麦]など古いスタイルを残している
と思われるところには、ご飯ものはない。

そばやでご飯もの、特に親子丼がないとそばやでかつ丼は生まれなかった
と考えているのである。ではそれがいつ、どこで、なのか。
明治のそばや、食堂?事情を調べてみなければ。課題である。

と、いうことで、時刻がずれてもにぎわっているそばや。

先日書いたが、上野警察前の、ねぎせいろの[翁庵]。

かつ丼並、900円ちょい。意外に高い。
並ということは上もあって、これは1000円を超える。
(肉の厚みの違いか。)

並。

立派な丼。

開けると。

アップ。

かつ丼も、普通にうまいが、味噌汁が濃くてよい。

正しい、そばやのかつ丼で、ある。

ご馳走様でした。

 

 

台東区東上野3-39-8
03-3831-2660

 

 

豚バラのカレー

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たまにはこんなものも書いてみよう。
豚バラのカレーだが、市販のルーのもの。

2月3日(日)昼

日曜日。
カレーを作る。

カレーというのは、週に一度は食べたくなる。

最初に米を洗い、浸水をしておく。1時間以上。

今日は、少し前から食べたかった、市販のルーを使った
豚バラの入ったもの。ルーを使うカレーに入れる肉としては
最も好きなものである。

豚バラは角切り。

塊を買ってきて、切る。

一口、で、ある。
多少大きめに見えるかもしれぬが、火を通すを縮むので
このくらいでよろしい。

にんにく、しょうが、スライス。
玉ねぎも大きめに切って用意。
玉ねぎはすぐに溶けるので、大きめに。

インドカレーでは必ず入れるが、最近ルーで作る場合にも、
にんにく、しょうがを入れる。市販のルーのレシピには
書かれていないが、考えてみれば入れるべきであろう。
入れた方がよりカレーらしく、深みというのか厚みが出るではないか、
と気が付いた。

炊飯器のスイッチを入れておく。

肉をフライパンで焼く。

焦げ目を付け、強火から弱火にし脂も出す。塩胡椒。

肉をあげ、残った脂でにんにくとしょうがを炒める。

ここに玉ねぎ。

玉ねぎも強火。
火を通すというよりも、焦げ目をつける方向。

一度火を止め、スパイスの用意。
市販のルーを使うが、ちょっと個性を出すために、
個別のスパイスも用意。

クミンホール。

当たり鉢で粉にする。

クミン以外はクローブベイリーフ
クローブはホール香りが好み。
入れすぎてもくせが出すぎるので5~6粒。
どちらもホールで。

炒めて香りを出す。

カレー粉、S&B赤缶も加え、からめながら炒める。

焼いた豚バラも加え、和える。

圧力鍋へ移し、水を加える。

レッドペッパー。

ふたをして、点火。
加熱、加圧。

圧が上がって、弱火にして、5分。
火を止めて、30分放置調理。

OK、煮えた。

ルーはハウスのジャワカレーを使っている。
S&Bのゴールデンカレーを使うこともあるが、
どちらも大人用のカレールーとしては定番であろう。

ルーを投入。

弱火でかき混ぜ、溶かしながら、とろみと味をみながら、
足していく。

OK。

これで完成。

福神漬けを用意。もちろん、酒悦のもの。

酒悦というのは、ご近所上野広小路にある。
福神漬けといえば酒悦と昔からいわれてきた。

カレーといえば、福神漬けが大定番ではあるが、
酒悦のものを食べてみるまで、私はたいして
うまい漬物とは思わなかった。
従って、まあ、長年軽んじて、あっても食べず、もっぱら
カレーにはらっきょを愛用していた。

有名であるが、やっと最近になって、酒悦のものを半信半疑で
買って食べてみて、驚いた。
他のメーカーのものと段違いなのである。
なにが違うといって、筆にしずらいのだが、
深みというのか、あまみというのか、うまみというのか、が、
違う、のである。

酒悦のものは、カレーでなくとも飯とともに、あるいは、
酒の肴としても実によい。

飯は既にスイッチが切れて、蒸らしも終わっている。

盛り付け。もちろん、福神漬けも添える。

豚バラは、味は別にしてまあ角煮のような状態であるが、
柔らかく煮えて脂もよく出ている。

先にも書いたが私はカレーライスには豚肉が最も
よく合うと思っている。
中でも、バラの角切りが最も存在感があり、うまい。

クミンとクローブはほんの少し強調される程度の量だが
この程度でよい。

福神漬けも、うまい。

なかなか、よくできた。

 

 

 

天鴻餃子房・神保町二丁目店

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2月2日(土)夜

引き続き、土曜日。

水道橋の宝生能楽堂で能を観終わって、出る。

なにを食べようか。
能であったが、歌舞伎のように着物を着てきた
わけでもなく、特段の計画があったわけではない。

水道橋の駅から、白山通りを神保町方向へ
歩いてみる。
なにかあるだろう。

とんかつやで、例の山本益弘氏の「とんかつ会議」で
名前が挙がっていたところがあったが、とんかつの気分では
ないか。

でなければ、このあたり、中華は多い。

最近食べたかったのは、餃子。

白山通りを渡り、通りの右側を歩く。
こちらの方が、店があるだろう。

水道橋の駅から、神保町の交差点まではすぐ、で、ある。
このあたりの店も随分と変わった。
なんだか、ホルモン、モツの店が増えているように見える。
ホルモン、モツが増えているのは、このあたりだけではなく
東京全般にそうであろう。
基本、水道橋、神保町あたりは学生街であろう。
神保町は例の神田カレーグランプリのおひざ元で
カレーやも多いのだが、学生向けにモツはやはり安いもの、
ということかもしれない。

餃子であれば、すずらん通りの[スヰートポーズ]か。
[スヰートポーズ]は戦前の創業である。

神保町交差点まできた。

あ!。
交差点の手前、二階に上がっていく階段。
餃子、で、ある。

ここ、確か入ったことがある。
そこそこ知られたところではなかったか。

[天鴻餃子房・神保町二丁目店]。

[天鴻餃子房]、天鴻はテンコウと読む。
靖国通りの北側に本店が別にあってすずらん通りの裏などにもあり、
入ったことがあった。
この界隈はさらに店があり、都内に全部で10店以上もある。
中国人経営の町の中華のようだが本店の創業は昭和33年といい、
もはや立派な老舗といってよいか。

狭い階段を上がる。

店の中も、狭い。
土曜日だが、かなりにぎわっている。
やはり、学生中心のよう。

奥の窓際のカウンター席。

店員さんは、中国系。

餃子が看板で、もちろん餃子も数種類、水餃子もあり、
それ以外の中華料理も豊富。セットも多そう。
そして、安い。

瓶ビール、キリンラガーをもらって。

なにがよかろう。

よだれ鶏
餃子は、、、パリパリと元祖のミックスと、看板の黒豚にしようか。

ミックスは8個、540円、黒豚は6個520円。

すぐにくる。

よだれ鶏

鶏肉に、麻辣(マーラー)のたれがかかったもの。

ラー油と花椒の麻辣は昔は四川系の店にしかなかったと思うが、
今はもうどこにでもある。

こういうものは無難にうまい。

ミックス。

パリパリは薄皮で筒形。名前の通りパリパリ。
元祖は野菜系。

黒豚。

これは大きめ。

どれも、普通にうまい。

焼き餃子というもの。
嫌いな人も少ないと思う。またマニアと呼べるように
大好きな人もいる。

私自身は前者であろうか。
ただあえて選ぶとすると、大きな方が好みで
上野の昇竜がよい。

だが、肉汁たっぷりだの、もちもちの皮だの、羽根つきだの
いろいろいうが、このあたりはあまりこだわりはなく、
どれでもうまいと思うのである。
反対に食べられないほどまずい餃子というのも少ない
ように思うのだが、いかがであろうか。
今は冷凍食品の餃子も十分うまくなっていると思うのである。

ただ不思議なことに、時として無性に食べたくなるのも
事実である。

ビールをもう一本。

内儀(かみ)さんの希望で麺。

ねぎラーメン。
写真を撮り忘れたが、これもそこそこの麻辣。

うまかった。

ご馳走様でした。

まだまだ時刻は早い。
どんどんと客がくる。

勘定をして、出る。

まんぞく、まんぞく。

 

 

 

神田餃子屋・天鴻餃子房

03-3263-6992
千代田区神田神保町2-2 亀山ビル 2F

 

 

 

断腸亭、能を観にいく。

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2月2日(土)

内儀(かみ)さんの友人の友人の従兄?という
つながりで(それはつながり?)、能を観にいくことになった。

宝生流の佐野登氏の「未来につながる伝統-能公演-」

というというもの。

歌舞伎はともかく、能というのはまったく生では
観たことがない。
当然というべきか、今公演の主催である佐野登という
能役者さんも存じ上げない。

だが折角、つながりがあったので、行ってみようと考えた。

やはり断腸亭として、能を観たこともないというのは、
まずかろう。

皆様、この文章を読んでいただいている方で、能、というものを
観たことがあるという方はどのくらいおられるであろうか。
一度ぐらいはあるものなのか。

正直のところ、能というのは、既に博物館に入っている
芸能というイメージ。むろん、文化的価値は別である。
現代リアルタイムのエンターテインメントとしてはもはや
成立していないというもの。

例えば、落語、歌舞伎は、厳しいところもちろんあるが、
まあ、リアルタイムで成立しているといってよいか。
これは興行的に商売になるという意味で、成立しているかどうか、
さらに、世の中の人々に親しまれ、ある程度の影響を与えることが
できているか、ということ。

文楽になるともう違うか。(これも観たことはないので、
ないをかいわんや、であるが)

講談も松之丞先生の登場などで光が少し当たっているが、
実際のところ、微妙であろう。
浪曲は、厳しい、か。

芸能というのはもちろん、栄枯盛衰があって、
時代が移れば致し方のないことではあろう。

ともあれ。
佐野登氏の公演。

場所は水道橋の宝生能楽堂
午後3時開演。

佐野登氏というのは、宝生流能楽師重要無形文化財総合指定(能楽)。
中島みゆきの「夜会」にも出演するなど、能楽を現代のものとする活動に
力を入れているとのこと。1960年生まれ。

初めて入った、能楽堂

席は、橋掛というらしいが、花道のような舞台向かって左、下手側。
能楽堂というのは、皆このくらいなものなのか、歌舞伎座などと比べれば
小さい。

例によって、プログラムを書き写す。
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【番組】開場14:30 開演15:00
スペシャトーク 佐野 登
舞囃子「小袖曽我」 田崎甫 辰巳和磨
狂言「鎌腹」 
 シテ:野村万作 アド:中村修一 小アド:岡聡史
■能 「望月」
 シテ:佐野 登 子方:水上嘉 ツレ:水上優 
 ワキ:殿田謙吉
 間:野村萬斎
 笛:一噌幸弘 小鼓:観世新九郎 
 大鼓:柿原弘和 太鼓:小寺真佐人
 地謡:三川淳雄 武田孝史 金森秀祥 小倉健太郎
     小倉伸二郎 川瀬隆士 田崎甫 辰巳和磨
 後見:辰巳満次郎 辰巳大二郎

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舞があって、狂言、能、という構成。

なんとあの“総合統括”野村萬斎氏、お父上の人間国宝
野村万作氏も出演られている。
超一流の舞台、なのであろう。
15時から6時頃まで3時間。(トウシロウにはちと長い。)

全体を通すと、初心者向けにわかりやすい演目を用意されていた
ようである。狂言も能も特段、イヤホンガイドのようなものは
ないのだがそこそこのみ込めた。
「そろ~り、ソロリ」のあの発声で言葉は「カシコマッテ、
ソウロウ、、」なんという、室町の頃のもの(?)。
すべてを理解するのはきびしいが、発音がゆっくりなのもあり、
まあ、意味は取れる。ただ、歌舞伎の浄瑠璃もののように、
謡(うたい)が台詞の代わりになる部分がある。浄瑠璃同様、
謡になってしまうと、ほぼ理解はできない。

まず、狂言の「鎌腹」。喜劇ではあるが、なんだか落ちがなく
終わってしまうという、、、。え?これで終わり?というもの。
不思議な感じ。

能の「望月」。
能というと、世阿弥が完成させた、台詞もなく謡曲だけで舞い、
なんだか観念的なものと思っていたのだが、この演目は
そうでないので、びっくり。

一般にはそういう観念的なものは「夢幻能」というらしいが、
「望月」はジャンルとして「現在物(げんざいもの)」というそうで、
主人公(シテ)は直面(ヒタメン)というらしいが、面をつけないで
台詞のある劇で、普通にストーリーが展開する、普通の芝居にみえた。
お話としては、仇討もので、いかにも歌舞伎にありそうなもの。
(実際に、明治期に歌舞伎化されているよう。)見どころは、
室町期に流行ったらしいが、歌や舞をいくつも披露する芸尽くし。
(歌舞伎にもこんな構成のものはありそう。)

作品としてのエンターテイメント性は高いのであろう。
だがこれであれば歌舞伎で観たいように思えてくる。
能舞台というのは、いかんせん、狭く小さい。
道具もほぼなく、背景もない。
まあ、そういうものなのであろうが。
あるいは、能狂言があって歌舞伎が生まれているので、当然か。

であれば、能の本領発揮、その観念的な“夢幻能”を観なければ
いけなくなってくるのだろう。
(しかし、能狂言は室町から400年も500年も変わっていない
のであろうか、という疑問も出てくる。)

さて、話題の萬斎先生。
意外に背が高くないように見えたのには驚き。
細身だからか、存在感か、TVではもっと大きく見えていた。

また、トウシロウの私など能の「望月」に萬斎先生が出演ている
のにまず疑問符が付いていた。彼は狂言師狂言に出演るのでは、と。

能は主人公のシテ、相手役のワキとそもそも役者が専門化しており、
さらに間(アイ)というお供の役があり、これを狂言役者(方)が
演じるということらしい。
実際、萬斎先生は、この曲(能では芝居のことを曲というよう。)の
お供の役を演じていたのである。

は~、こんなこともするんだ~という感じ。
台詞はそこそこ多いが、もちろん役割なのでオーラのようなものは、
消して、従者らしい演技。あたり前なのだが、ちょいと拍子抜けでも
あった。

狂言、一度観たくらいでは、まったくわからない、というのが
正直なところではある。
いろんな疑問が沸いてきた。

ただ、、、やはり、実際に観て、博物館の芸能という印象は
強くなっているのは偽らざるところ。
であれば、なんで現代において存在しているのか、誰が支えているのか、
(国もあろうがそれだけではなさそう)というのも疑問になるのだが。
(夢幻能のおかげか?)

 

 

 

浅草並木・藪蕎麦

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2月1日(金)夕

2月に入った。

ちょっと久しぶりかもしれない。

しばらく前から行こうと思っていた。

浅草、並木通りの[藪蕎麦]。

行くのであれば、時間があるので池波先生を見習い、
昼の人が引け、夜の客で混む前の夕方、4時頃がよいであろう。
生前、池波先生はそうされていた。

マフラー、コートにソフト帽も被り、手袋。
自転車で出る。

寒い。
ご多聞にもれず天気はよいが、風が強い。
切るよう。
まさに厳寒である。

今年の節分は2月3日(日)、翌4日が立春
旧の正月元日は5日(火)。

そろそろ寒さも緩んできてよい頃ではある。

春永、はるなが、という言葉があったが、
日も長くなってくる。

今しばらくの辛抱である。

店の前まで、たどり着く。

暖簾が出ているのを確認。

自転車を歩道の車道側、ガードレールそばにとめる。

紺地に白い太字で染め抜かれた、並木藪蕎麦の暖簾。
分けて、硝子格子を開けて入る。
後ろ手ですぐに閉める。

いらっしゃいまし~。

一人、と指を出す。

案の定、すいている。
テーブルに高齢の夫婦二人。
座敷に一組の男女。
都合、二組。

テーブルでも、お座敷でもどちらでも、と、お姐さん。

テーブル席の一番奥。
菊正の四斗樽(しとだる)の前。
こんな時には、ここがよろしかろう。

手袋を脱ぎ、帽子をとり、マフラーも外し、コートも脱ぐ。

椅子に掛ける。

掛けると、お姐さんに、

お酒お燗と、天のヌキ。

お酒お燗の件は、ここではもちろん、アツカンですか、
などと野暮なことは決して聞き返されない。

そして、一度、言ってみたかった、のである。
天ぬき、ではなく、テンノヌキ、と。

と、天ぬきですか、とお姐さん。

私が天ぬき、というと、お姐さんはテンノヌキですね、と
応えたことがあった。

まあ、どちらでもよいのだが、
そもそも、天ぷらそばを、テン、と略して言っていた。

出典は、例の歌舞伎「雪暮夜入谷畦道」。
菊五郎の、入谷のそばや、である。
そこでの直侍が店に入ると、最初の台詞。
「テンで一本つけてくんな」。
で、ある。

それで、天ぷらそばの、そば抜きを、テンノヌキ、
という言い方になるのである。
テンノヌキ、カモノヌキ、タマゴノヌキ、で、ある。

ともあれ。

お酒がくる。

もちろん、適温の上燗。
これでなくてはいけない。

そば味噌をなめ、一つ、二つ。

天のヌキもきた。

ふたを取る。

熱い、舌が火傷しそうなつゆから、レンゲで一口。

うまい。
この寒い日には本当に、温まる。
燗酒とともに。

つゆにふやけた衣と、芝海老も。

うまい、うまい。

一合の終わりが見えてきた頃、せいろを一枚、頼む。

6人組の観光客らしいお客が入ってきた。
言葉を聞いてみると、ハングル。
ここは流石にそこまで、多くはないのだが、最近は日本人の
観光客以外にも中国語、ハングルが聞こえてくることも多い。
英語のメニューも用意しているよう。

彼らの注文は、天ざる6つ、といっていた。

私のもきた。

つゆをそば猪口に移す。

神田の藪は緑がかっていたが、ここの色は今の藪としては
ノーマルといえるであろうそばの色。

箸先にわさびをつけ、そばを一箸つまみ、先だけをつゆにつけ
手繰る。
一噛み、二噛みで、喉に送る。

わさびの香りと、つゆ、そばの香りが
さわやかに喉に吸い込まれていく。

口の中と、のどで味合う。
まさに堪えられない。

手繰り終わり、席でお姐さんに勘定を頼む。

うまかった、ご馳走様です。

ありがとうございます~と、送り出される。

よい時間である。

 

 

 


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