浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭、京都へ その16

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晦日。いよいよ押し詰まってきた。

結局、今月は、京都行きで終わってしまった。

最後の二条城。
庭を先に見た。

二条城全体で世界遺産

見学のできる二の丸御殿もむろん、見た。
有名な最後の将軍、慶喜大政奉還を宣言したのも
二の丸。本丸にも御殿はあるのだが、明治になってから
桂宮邸を移築したもの。

二の丸の唐門。重文。

二の丸車寄せ。

二の丸御殿はほぼすべてが国宝。

江戸幕府関係の城、御殿は、むろん江戸城も現存していないし
間近に見られるのは、ここだけであろう。
やはり貴重なものである。内部はここも撮影禁止なので詳細には触れない。

先に書いたように明治になり天皇離宮という扱いになって
徳川家の葵の紋を菊に換えていたり、障壁画を一部描き換て
あるところはあるが、その規模と造り、障壁画の威容は
十二分に残されているといってよいのであろう。

家康、秀忠、家光の頃。これから朝廷や天皇はもちろん、
この国を徳川将軍家が率いていくんだという気概のようなものが
ひしひしと伝わってくる。

そして、慶喜がここで大政奉還を発した。
また、既に書いたが、写真好きの慶喜はここの庭のソテツの写真を
撮ったりしている。
その頃には、池の水も枯れていた。
植栽なども荒れていたのであろうか。
そして、どんな思いで慶喜はここに立ったのであろうか。

1603年から1868年まで265年間の江戸時代。
徳川幕府統治時代を奇しくも象徴する場所。

日本史上考えてみると、265年も戦いがなかった時代は
他にはない。
中世末から、近世、近世から近代の助走期。

ともすれば、いまだに江戸時代を旧弊な前時代と考える向きが
あろうかとは思うが、そんなことはない。
明治以降の我が国がアジア各国などが羨むような
発展ができたのは、この265年の平和な時代があり、我が国社会は
学術、思想、経済、文化その他、全国津々浦々まで大いに成長、
成熟できたからと考える。

その江戸幕府の貴重な遺産であるのが二条城であるということを
ここを訪れる人々に考えていただきたいと思うのである。

さて、これで終了。

昼飯は、京都名物、喫茶店の厚焼き玉子サンドイッチを
食べようと考えてきた。
候補は二条城から歩ける上松山町の[マドラグ]という
ところ。
きてみたら、トンデモハップン、15時まで予約で一杯。
なめていた。

そしてもう一軒。寺町通天性前町の[スマート珈琲店]。
バスで市役所前まで移動し、寺町通を南下すると、
こちらも、似たり寄ったり。
やはり観光客が集中しているのか。

よし、こうなったらもう、なんでもよい。
寺町通を南下。なにかあるであろう。
ラーメンや?。

途中から、新京極通

ん?そばや?。
[更科]とある。

いや、店の表にはそばではなく「名代きしめん」とある。
はは~、きしめんやさんか。

入ってみる。
観光客も多そうだが、地元の人もあるよう。
よいかもしれぬ。

頼んだのは、かしわのきしめん

青いねぎ、鶏肉。
この写真、気に入っているのである。

箸袋が漢字のみというのも珍しい。
「新京極御用極製棊子麺處更科本店」。

どう読むのか、新京極はよいだろうが、
御用が付いているのはどういうことであろうか。
浅草寺御用なんという言い方は浅草に名乗る店はある。
新京極はお寺の名前でもないと思われるし。わからない。
極製は、きわめて上等に作ったもの。棊子麺できしめん
と読ませるよう。

食べてみる。
だしは昆布と鰹か、ちょっと甘めの濃厚なもの。
きしめんは柔らかめ。

丼はちょっと小ぶりで柄も古風といってよいのか
よい雰囲気。

うまかった。

ご馳走様です。

勘定をして、出る。

さて、あとは京都駅を目指して帰るだけ。

ちょっと風邪もひき始め。
重い足でガラガラとキャスターを引きずって、河原町
阪急に乗って一駅、地下鉄に乗り換えて、京都駅。

新幹線に乗って、帰京。

疲れた。

さて。
宮元健次先生の「京都名庭を歩く」

を参考書にした京都庭探訪記、いかがであったろうか。
結局、今月はこれで終わってしまった。

個人的には名残の紅葉に間に合った庭ももちろんよかったし、
よき参考書を得て随分と勉強させていただいた。

この連載の最初に書いたが、この12月末で30数年勤めた
会社を辞めた。また、これからは断腸亭として生きていく
などとも書いた。
だが、実際のところ、長年のサラリーマン生活の疲れを癒すというのか、
しばらくはぶらぶらのんびりしようか、ぐらいに思っている。

この日記自体は、この形で継続はしていこうとは思っている。

55歳をすぎ、平成も終わり、新時代に断腸亭は
なにをするのか。乞御期待?!。

ともあれ。
断腸亭京都庭探訪、お付き合いいただけた皆さま
ありがとうございました。
また、18年のご愛読ありがとうございました。

そして、よいお年をお迎えください。

 

  

 

 


二条城

 

 

 

 


更科本店
京都市中京区新京極通六角下ル西側
075-221-3064

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その15

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さて、やっと最後。
二条城である。

東山の青蓮院門跡からタクシー。
京都というのは自動車に乗ってしまうと、すぐである。

着くとまだ午前中だが、内外取り混ぜての観光客、
特に修学旅行の中高生であろうか、まさにごった返している。

そういえば、私も高校時代であったか、ほぼ記憶にないが
修学旅行できたような、、。

やはり、こういう大切なところは大人になってから
改めてこなければいけなかった。
(逆にいえば、中高生の頃にくる意味がどれだけあったのか、
ということにもなるが。)

なぜ今回二条城にきたのかといえば、断腸亭としてやはり
きておかねばならない江戸幕府の重要な史跡であるから。

また、今回の京都訪問のテーマである京都の庭。
ここの庭も小堀遠州作。宮元先生の参考書でも
https://amzn.to/2RfEo5x

丁寧に解説、論じられている。

建物ではなくまずは、庭から見る。
二条城には庭園はいくつかあるが、遠州作は二の丸庭園。

最初に出してしまおう。

これがほぼ全景。
例によってパノラマなので手前のラインは直線である。

もっともわかりやすいこの庭のポイントはこれ。

池の右側のわらの薦(こも)に覆われているもの。
この季節なのでこんな姿だが、これ、ソテツである。
もちろん、防寒のためであろう。

今の日本であれば、宮崎だったり、鹿児島によくあると思うが、
なぜか、江戸初期にできた京都の二条城の庭にある。

この庭ができたのは寛永3年(1626年)。
将軍は家光だが、秀忠存命中で秀忠の大御所時代。

この年、時の後水尾天皇行幸が二条城にありそのために
小堀遠州によって整備されたもの。
幕府、将軍家の威信をかけたものということができよう。

ソテツはその時に既に植えられていた。

ソテツは、日本には自生していない。
安土桃山期、宣教師達がゴアやマニラから大名や天皇などへの
献上品として持ち込まれていた。

史料への初出は宣教師によって京都に建てられた教会の庭で、
次が秀吉の聚楽第聚楽第図屏風に描かれているという。
秀吉の西欧趣味というのもあろうが、当時流行りであった
のであろう。(ソテツを得意にしていた有力庭師があたよう。)
他に醍醐寺三宝院、西本願寺にもあるらしい。

その後、遠州に受け継がれ、ここ二条城。
さらには桂離宮にもソテツは植えられている。
遠州の名刺代わりにもなっていたようである。

管理もよいのであろうが、ソテツというのは長生きで
今のものを将軍慶喜が写真に撮っているらしく、
150年以上の樹齢だそうな。
まさか、江戸初期のものではなかろうが。

今のこの庭は、遠州の頃とはおそらく大きく変わっている。
後水尾天皇行幸のために作られたわけだが、天皇用の
御殿やらがこの庭に多数建てられており、その後にすべて
取り払われている。
また幕末期には管理のわるさからか、水は枯れ、枯山水
ような状態であったという。

明治になり宮内省所管の天皇離宮という扱いになり
ここで植栽などを含め手が入り、今の姿はそれ以来のものと
考えてよさそうである。

もう少し細かく見てみる。

滝がある。

二段の滝という。見た目にはよくわからないが二段なのであろう。

滝の背後の樹木が切れており、本丸のどこかであろう、
瓦屋根と白壁が向こう側が見える。
(ひょっとすると、今はないが本丸の天守を見せるためのもの
であったか。)

左側の松のある部分は、蓬莱島という名前の島。

この庭もこの蓬莱島をはさんで左に鶴島、右に亀島の二つの
小さな島がある。
鶴と亀を従え、極楽浄土を表しているとのこと。

ちょっと角度違い。

樹木はともかく、石組みなどは遠州の頃のものなのではなかろうか。
それなりの味わいは感じられる。

さて。ここでもう一つ、宮元先生の著作から、

この地図。

先に二条城の南にある神泉苑を覗いている。

この地図にはもともとの神泉苑の範囲を入れた。

二条城というのは神泉苑の北部を削り取るように
造られているのである。
それも、その神泉苑の中心的な部分と思われる、
湧水部分を二条城に取り込んでしまったという。

神泉苑のところで書いたが、神泉苑は内裏の隣で禁苑といって
天皇専用の庭であった。湧き水は都の命を支えるものであり、
(龍)神の住むところであった。天皇王権を構成する重要な
要素の一つといってよいだろう。

その神泉苑をぶん取って幕府の城にしてしまうというのは、
天皇、朝廷から王権の剥奪という意思があったと
考えられると宮元先生はいう。

なるほど。
そういうものかもしれぬ。
禁中並公家諸法度などを押し付けた江戸幕府の朝廷政策
からすればさもありなん、で、あろう。

 

 

 

つづく

 

 

 

 


二条城

 

 

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その14

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断腸亭の京都。東山の青蓮院門跡。

小御所の奥から池方向を撮ったもの。

室町の庭が残っている部分なのか、今のところこれがベストショット。

石橋を入れて、築山方向を見たもの。

池の面の紅葉落葉をそのままにしているのは、
意図されたものなのであろうか。
おそらくそうであろう。
きれいに取ってしまったら、イマイチなのか。
ただ、書いたように刈り込んだ木もある中で、
どっちつかずのようにも見えるが、いかがであろうか。

反対に華頂殿側の縁側から小御所側を撮った。

苔の庭と松、池、背後の紅葉。
もう一つだ。

華頂殿の中も見て順路に沿って、庭に降りる。

右側が小御所、池と築山、左側が華頂殿。

これ、よいかもしれない。

建物から見ていた時には気が付かなったが
中央の対岸に石組みがあった。
これがよいアイポイントになっている。

この庭は建物から見るのではなく、庭に出て歩いて見るように
設計されているといってよいのかもしれぬ。

池に落ちている紅葉もこう見るとわるくない。

回遊式庭園というのは、こういうことなのか。
東京にある大名庭園なども大きくて、基本歩いて見てまわる
ものであるが、もう少しコンパクトかつ、繊細に造られている。
そう、繊細さが違うのではなかろうか。

ここから、左。
(もう一度、図を出してみよう。)

華頂殿の奥の伝小堀遠州という霧島の庭の方へ。

最奥からのパノラマ。

やはり小堀遠州ではないのではないのではなかろうか。
関わっていないという証拠もないのであろうが。

江戸以降、それも遠州よりももっと後、ひょっとすると
明治以降?そんな近代的センスを感じるのだが、
いかがであろうか。

元学問所で茶室の好文亭が左。

ある程度計算はされているが、自然な枝ぶりもある。

どうだ、これでもか、とポーズを決めて、こちらも
高さや方向、アングルを決めて見るのではなく、
よい風情である。

好文亭の屋根と紅葉。

光線の具合がよろしい。

庭から山へ上がるような順路になっている。
上がったところには小さな神社があって、眺望が開けている。

京都の街も見える。

降りてきて、宸殿(しんでん)前。

これが右近の橘、左近の桜。
広いところに二本だけ木が植わっているのは奇異にも見えよう。
右、左はもちろん、こちらからではなく、向こう側から見て。

ちなみに向こう側から見て左が上(かみ)、右が下(しも)。
舞台でも上手(かみて)下手(しもて)というが、これもその例。
つまり左右には上下があって左が上位で右が下位になる。
右大臣、左大臣では左大臣の方が偉い。
ご飯が左で味噌汁が右。これが正しく、これもその例と聞いたことがある。

紫宸殿(ししんでん)という言葉を聞いたことがあろうか。
朝廷、内裏の一番メインの建物。正殿。
もちろん、天皇が中央奥の高御座(たかみくら)に座る。

本来、右近の橘と左近の桜は、この紫宸殿の前にあるもの
なのである。
この橘と桜が植わっているのは、ここが天皇の正殿である
と外から一目でわかるようにしているといってもよいだろう。

青蓮院の宸殿は先に書いたようにゆかりの天皇
歴代門主の位牌を祀っている建物。
内裏、紫宸殿を模してここが天皇のおわす場所(御所)である
という意味合いになるのだと思われる。

昨日の曼殊院ではこの宸殿を造るという願いがあり、
寄付を募っていた。
皇室ゆかりの門跡寺院としては、その格を示すために、
なんとしても右近の橘と左近の桜を前庭に植えた宸殿がほしい
ということなのであろう。

これで青蓮院門跡終了。

そうであった。
毎度引用させていただいている宮元先生の参考書、

「京都名庭を歩く」ではこの青蓮院は取り上げられていない。
名園ではあると思うのだが、学術的興味には入らない、
ということかもしれぬ。

いろいろ調べてみると、明治以降ここは、茶会などの
今でいうイベントのようなものが開かれることが
多かったようである。
耳目も集まり、そのおかげで過激派の標的になった
ということもあろうが、ある程度恵まれていた、と
いえるのかもしれない。

再び門前に出てきた。

これもなん本かある大楠の一本。

さて、これからどこへ行くのか。
初日にそばの神泉苑まで行ったが、これから二条城。
ここは参考書に載っている。

移動はもう、例によってタクシー。
タイミングがわるく、駐車場には一台も持っておらず、
呼んで待つ。

 

 

つづく

 

 

 


青蓮院門跡

 

 

 

断腸亭、京都へ その13

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断腸亭の京都。

3日目の朝。

今日帰るわけだが、多少疲れ気味。

二か所を見て、帰ろう。

一か所目は、東山の青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)。
実のところ、昨日の金地院の隣といった位置関係にあるところ。

祇園からも近い。

祇園アパホテルというのはほんとによい場所にある。

祇園さん、八坂神社の前。
まだ朝の雰囲気。

参道向かって左側の坂を登っていく。
ここは円山公園といってよいのか。

芋棒が名物の[平野家]。
なん回か入っているが、ここ好きなのである。

左へ。

と、ここに大きな大きな三門。

浄土宗総本山知恩院

知恩院はむろん、親鸞聖人。
ここ東山、昨日の臨済宗大本山南禅寺と浄土宗の知恩院が並んでいるのである。

三門前を少し歩くと右側、もう到着。

青蓮院門跡。
曼殊院門跡同様、皇室関係のお寺。

2009年

もう10年も前になるのか。
私が京都の庭なんぞに興味を持ったきっかけが
たまたまのぞいてみたこのお寺であったのであった。

心なき身にもあはれは知られけり、ではないが、
まったくそれまで、興味はなかったが、ここの庭を見て、
世の中にこんな庭があるのか、と感動をしたものであった。

いわゆる日本庭園といえば、東京では、浜離宮だったり
六義園だったり、いわゆる大名庭園ばかり見てきたが
特段の美的興味というのか、好ましく思う感覚はまったく
持たなかった。

昨日の曼殊院もそうなのだが、ここ青蓮院の庭は私が知っている
大名庭園とは、明らかに違っていた。

大きな楠。

青蓮院にはなん本も楠の古木があるが、門前の通に面した
角のもの。お化け楠などといわれていたと思うが、聞けば
弱ってきて、数年前に枝を切ったという。

門を入る。

これも通用門、簡素なもの。

石畳に左右は漆喰壁。
紅葉もきれい。

これも通用玄関なのであろう。

拝観料を払って上がる。

青蓮院門跡。門跡寺院としての歴史は平安末、平清盛の頃から。
以来、皇族または五摂家出身者が門主を務める格式になった。
現在の場所に移ったのも古く、鎌倉の頃という。
江戸期、京都の大火により内裏が消失した際に後桜町上皇
仮仙洞御所となっている。

ここの建物は昨日の曼殊院よりも数も多く大規模。
ただ、明治に火災でほとんど消失し、現在のものはその後に再建、
あるいは移築されているもの。主要な建物は、本堂、門主の居間であった
小御所、ゆかりの天皇門主の位牌を祀る宸殿(しんでん)、
茶室好文亭好文亭は後桜町上皇の学問所として使われたものという。
しかし、1993年(平成5年)中核派の連続放火事件に遭い全焼。2年後に
創建当初の建築に忠実に再建されたものという。

やはり、ここは庭を見るところであろう。

青蓮院さんのページを参考に図を作ってみた。


庭は大きく4か所に分けられるか。
龍心池を中心に築山のある山水の庭園。泉水庭。
ここは古く室町後期、相阿弥という絵師の作と伝わる。
それから泉水庭の奥にある霧島の庭。これは伝小堀遠州
さらに好文亭の前庭。大森有斐の庭と呼ばれているもの。
そして宸殿前の庭。

まずは池の前の廊下からパノラマで撮ってみた。

大きな松の木と池と紅葉。
正面、松の向こうに見えているのは華頂殿。
紅葉は美しいが、このアングルはイマイチか。

小御所の縁側から池。築山が見える位置。

築山とその向こう側の木々は丸く刈り込まれており、
江戸、遠州以後といってよいのか。

さらに奥から。

これがベストではなかろうか。

室町期のデザインというのはこんな感じである、といわれると
そんな気がしてくる。

木々は刈り込まれていないのだが、美しい。
左側の建物脇から枝を出している黄色く色づいている木、
見え隠れしている石橋、池の表、右側の枝ぶり。
自然な感じではあるが、バランスが取れている。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 


青蓮院門跡

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その12

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断腸亭の京都、もう少し続く。

南禅寺塔頭の金地院の庭を見てきた。

ここから、説明付きで方丈と茶室の見学。

方丈には「布金道場」という書の額が掲げられている。
これはかの山岡鉄舟の筆。
明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、寺ではなく道場である
という意味で書いたという。

幕府ゆかりのところ。真っ先に狙われたのであろう。
鉄舟先生、流石である。

さて。
方丈と茶室の見学。
どちらも重文。

方丈の襖絵は狩野派。金地の豪華なものもある。
だが例によって、室内は撮影禁止のため、ここも省略。

次に茶室。
名前が八窓席という。これももちろん遠州作。
大徳寺孤篷庵、曼殊院の八窓軒と合わせて、京都三名席の
一つという。(曼殊院は先ほど見てきた。外だけだが。)

遠州は茶人でもある。
その人の設計(実説は遠州改造とのこと)したものである。

私自身、お茶はまったくの素人であるし、
今のところやるつもりはない。

見て、説明を聞いて興味をそそられたのは、ここも
やはり家光がくることを想定していたよう。
例えば利休であれば、アンチ秀吉の黄金の茶室ということで
二畳にし、頭を下げないと入れない躙(にじ)り口というような
設(しつら)えがある。
しかし、遠州のこの茶室は躙り口はあるにはあるが、
障子がちゃんと表にもあり、上位のお客の場合そちらから
入るという設定になっていること。

もう一つ、興味をそそられたのは、この八窓席の裏側になるが
崇伝のプライベートな茶の間のようなところ。
これが床の間というのか違い棚が設えられており、小さな空間だが、
この意匠が実に趣味がよい。渋いのである。
遠州が関わっていたのかどうか不明だが。

と、いうことで建物内部の見学は終了。
差しで話が聞けたのはよかった。
時計を見たら、1時間以上も。

京都といえば、紅葉の名所は人が多いのであろうが、
東照宮を含めて金地院など紅葉ということでもなく、
あまり知られてもいないのであろう。
ただ、書いたように江戸初期の我が国を代表する庭であり
この時期の幕府、将軍家との密接な関わり、いや将軍家そのもの
といってもよい意味がありそうだということはもっと知られて
然るべきであろう。

芸術性はどうであろうか。
意味を聞いてみると、なるほど、と膝を打つ。
厳粛、荘厳という言葉が当てはまる。

ただ、どうなのであろうか。
私のような素人が見ているので正しい指摘かどうか怪しいが
背後の幾何学的に配置された丸く刈り込まれた(はずの)木々など、
管理がもう一つのように見える。
曼殊院のところでも書いたが、作庭者のデザインコンセプトは
庭師のその後の管理があって初めて後世に残される。
もちろんお金も掛かる。
わかっていてもできない、のかもしれぬ。
そのためには皆の目がここにもっと集まることが条件
なのであろう。

“伝”ではない紛れもない小堀遠州作の金地院庭園、
訪れていただきたい。

さて。疲れた。

帰ろう。

ここから祇園のホテルまでは坂を降りるだけ。
歩いてもそうはないだろう。
蹴上のインクラインの下まで降りてきた、、、
が、もう根性がなくなった。
タクシーをつかまえて、ホテル到着。

後から考えてみると、この時、風邪をひき始めていた
ようである。かなり疲れたので、1時間ほどベットで休息。

晩飯は、昨日は板前割烹[阪川]を予約して行ったが
今日はプランなし。
簡単なもの、それこそラーメンやでもよいか、と思っていた。
が、ラーメンは北白川の[魁力屋]で昼食べた。

私には毎度お馴染み、南座の[松葉]にしよう。

起き上がり、出る。

観光客であふれる四条通を真っすぐに西、四条大橋東詰。
京都南座
恒例の顔見世興行のふたが開いたところ。
祇園界隈では、風物詩なのであろう。
昨日の[阪川]でも、入った喫茶店でも噂する人が
少なくなかった。

ちょうど芝居がはねた時刻であった。
入るとごった返していたが、二階で座れた。

ビールをもらって、なににしよう。
品書きを見る。

毎度お馴染みのにしんそばでは芸がない。

鴨のぶっかけのようなものが目に付いた。
もう冬であるが京都では、冷たいそばを食べる習慣があるのか。
だが、うまそうである。

と、すると肴にはにしんをもらおう。
にしんの三種盛り。

そばと肴と同時に頼んだが、ずらしますか?と
ちゃんと聞いてくれる。
よい頃に声を掛けてくれ、とのこと。

ビールはサッポロラガー。

にしんの三種盛り。

見た目は同じようだが、にしんそばに入れるもの、
山椒の風味がついたものやら。
流石に老舗[松葉]、どれもこなれた味で、うまい。

そば。

鴨は焼いたものではなく、湯がいているか。
柔らかい。
おろしも下にある。

これがまずかろうはずがない。

うまい、うまい。

食べ終わり、下で勘定。

おいしかった、ご馳走様でした。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

金地院
京都市左京区南禅寺福地町86-12

 

 

 

松葉

 

 

 

 

 

断腸亭、京都へ その11

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断腸亭の京都。

東山、南禅寺塔頭の金地院。
江戸初期の以心崇伝所縁の寺。

そこにある、東照宮である。

久能山、日光とここ。
家康自らが遺言した三つの東照宮のうちの一つ。

金色のようにも見えるが、実は黒漆が剥げてしまっているもの。

総黒漆塗り。

比較のために、私の地元東京上野東照宮の拝殿を出してみよう。

こちらは先年やっと修復してもらえて、往時の姿が再現されている。
上野は黒漆と金箔張り。

金箔の方がもちろん派手でお金もかかっているのであろうが、
総黒漆というのはそれに次ぐもの、という。
門では上野であれば寛永寺、あるいは、増上寺にも黒門があるが、
どちらも将軍菩提寺で幕府に関係するものでは将軍家関係のものに使う
格としては上位のもの。
さらに金地院東照宮には家康の遺髪と念持仏を祀っている。重要度は高かろう。

さて、ここで宮元先生のこの京都金地院東照宮に関する説を
紹介しよう。これ、おもしろい。

まず、この地図。

江戸から北極星の方向に日光、日光東照宮がある。
これは、皆さまも聞かれたことがあるかもしれない。
家康は神になって関八州を守る、という意思であった、と。

また、京都金地院に東照宮を建てるのは、京都、朝廷への睨み、
さらに西国鎮護という意味があったであろうことは、簡単に
想像ができよう。

それから問題なのは、この地図にマークしたが久能山東照宮から
京都金地院東照宮を結ぶ線上に愛知県新城市にある蓬莱山、
さらに岡崎市大樹寺の二か所が存在しているということ、という。

新城市の蓬莱山というところは家康の生母・於大方(おだいのかた)が
子授けの祈願を行ったところ。岡崎市大樹寺は家康生誕の地。
大樹寺には家康が「位牌を建てよ」と遺言しており東照宮
建てられ、また蓬莱山にも東照宮が建てられたという。

久能山から京都の線上にこの二か所が入るのは偶然ではない
という。なんだか呪(まじな)いのようだが、実際にこれ、
呪いなのである。吉田神道神道家、吉田梵舜という者の
監修による神道上の秘儀で、家康の神への再生という意味が
あったというのである。
荒唐無稽のようだが、当時としては大真面目に行われていたこと
と考えてよいようである。

さらにちょっと横道に逸れるがこの吉田梵舜なる者は家康以前には
秀吉に仕え、秀吉にも神となって再生する秘儀を行っている
というのである。この南禅寺よりももっと南の東海道線
トンネルの上の山あたり、阿弥陀ケ峰の山頂に、秀吉は葬られ、
豊国廟が建てられた。そしてこの豊国廟は西向きに建てられたという。
また、その西の麓に秀吉を神として祀る豊国神社が建てられた。
そしてさらに西に秀吉が保護した西本願寺が一直線上にある。
これが秀吉神格化の秘儀であったらしい。

家康は大坂の陣で秀頼、淀殿を滅ぼすと豊国廟、豊国神社を
徹底的に破却、神号も剥奪させたという。廟も掘り起こし、
豪華なお棺から一般同様の壺の棺に屈葬の形で葬り直している
というのである。

家康もなかなかえぐいことをするものである。
そして、代わりに自らが神になろうとした、のである。
政権が代わるのだからここまでやるのはあたり前だったのか。

ちなみに金地院東照宮も西向きである。
この後述べるが、金地院の方丈及び庭園は南面しているが
直角になっているのである。

さて。

きた道を戻り今度は、金地院の方丈にきてみる。
金地院内部の拝観と説明を受けるまでには、もう少し
時間がある。

方丈前の庭園。

またまた、パノラマのショット。
(毎回同様だが、手前のラインは実際は直線である。)

広い文様付きの白砂と向こう側に石組み。
その奥に、丸く刈り込まれた木々。

これを見ても、トウシロウの私にはなにやらさっぱり
わからない。参考書を開き、説明を聞かねば。

ふむ。これが、紛れもない小堀遠州のいわゆる枯山水の庭。
寛永4年(1627年)に主である崇伝の依頼により作庭されている。

宮元先生の参考書から作ってみた。

説明の方が現れて、方丈に上げていただく。お客は私一人、差しである。

方丈の開け放たれた障子から。

ちょっと角度が付いているので少しわかりやすいか。

左が亀に見立てた亀島。右が鶴島。
鶴は首を下に付けて、伏せているような感じを見立てている。

間に平らな大きな石があり、これが礼拝石。
奥の石組みは蓬莱石組み。三尊石ともいうようで
仏に見立てているとのこと。
礼拝石はそれを拝するためのもの。

鶴島と亀島はシンメトリー、左右対称に配置されている。
宮元先生によれば日本庭園としてはかなり珍しい構成で
欧州の庭園のもの。
また背後の木々はすべて丸く刈り込まれ幾何学的に
配されている。これも西欧式庭園を想起させられる
という。
(時代は後の曼殊院も同じ名前の鶴島、亀島。偶然か意図か。
だが曼殊院の方は、大小がありシンメトリーではない。
むしろ、奥の亀島を小さくおり、遠近法とみるべきか。
この件、宮元先生は曼殊院の項で触れられていないが。)

また、ここにもキリシタン灯篭がある。

さらに。この庭の正面は南。木々の向こうには東照宮
西向きに建てられている。この庭を見ることは東照宮
礼拝することになるのである。
これも遠州によって意図して設計されていると。

将軍家光はこの時期数回に渡って上洛している。
実際には実現をしなかったようだが、ここに家光が
立ち寄ることを想定していたというのは説明の方の言葉。
なるほど、そういうこともありえよう。

この庭の鶴と亀は東照宮を拝する脇侍で、もちろん
どちらも長寿の象徴。つまりこの庭は祭壇のようなもので
徳川家の永遠を祈る装置であったというのである。
なるほど、深い。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

金地院
京都市左京区南禅寺福地町86-12