浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



煮穴子と天ぷら その1

dancyotei2018-09-18

9月7日(金)夜〜

さて、引き続き、金曜日。

[ぽん多本家]でカツレツを食い、ぶらぶら歩いて、

再び、パンダ広場。

吉池でも覗いていこうか。まだあいている。

今日、目にとまったのは、穴子

なんとなく食べたくなった。

中型のもの。

一本、400円弱と安くもないが、

穴子にしようか。

3本、買って帰る。

さて、翌日。

穴子はこの前もやったし、3本のうち一本は

天ぷらにしようか。

このところ、天ぷらは少しやっていない。

天ぷらにするには穴子だけではもったいない。

他になにか探してみよう。

御徒町、上野方面に出たついでに再び吉池に

寄ってみる。

天ぷらの定番であれば、いか、きす、めごち、あたり。

売り場を探してみると、きすは解凍の輸入もの、タイ産があった。

いかは、冷凍のもんごういかと新いかがある。

新いかというのはすみいかの子供。

江戸前の鮨やではこの時期の風物詩。

大きいものは江戸前天ぷらの大看板であるが、

これはいかにも小さい。

一杯が5cmあるかないか。

さばいたら半分。

にぎりの鮨にしても、にぎり一つに三杯もつけねばならぬ

くらいであろう。

とても天ぷらにはできない。

ん!。

白魚がある。

時季が違うような気もするが、買ってみるか。

天ぷらの種としては季節ものだが、定番である。

おろし用の大根も買って帰宅。

夕方、作り始める。

穴子

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白魚ときす。

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白魚は茨城産。

今はもちろん獲れないが、白魚といえば江戸前の看板魚であった。

家康の好物であったともいい、佃の漁師達は毎年

将軍家に献上していた。

時季は、暮れから春先の寒い時分。

黙阿弥の「三人吉三」大川端の名台詞。

月も朧(おぼろ)に 白魚の

篝(かがり)も霞(かす)む 春の空〜

この春は、初春、旧歴の年始の頃。

篝火を焚いて夜から朝であろうか、四手網で獲っていた。

調べてみると、茨城の白魚漁(霞ヶ浦、北浦)は8月から

既に始まっていた。

(漁期は8月から12月のよう。隅田川河口の白魚漁は産卵のために

集まってくるのを獲っていたようである。今の茨城の白魚漁は

産卵期を避けているのかもしれない。)

穴子はこんな感じ。

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この内一本は天ぷら用。

どちらにしても、塩でもんでぬめりを取る。

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ぬめりは生ぐさくなるのを防ぐため。

穴子では必須だが、天ぷらでもやはりやるべきであろう。

触ってぬめりと、においもかぎながら、

塩をし、もみ、洗う。

6〜7回であろうか、完全にぬめりがなくなり、

生ぐささがなくなるまで。

一本を半身に切りさらに横に半分に切る。

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天ぷら用は冷蔵庫に入れて置き、煮穴子用のものを圧力鍋に。

酒、水、薄く、しょうゆ、砂糖。

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煮立ててふたをする。

加圧。圧があがったところで弱火にし、5分。

火を消して、放置調理。

これはこのまま置いておく。

さて。

食べる時刻に合わせて天ぷらの準備開始。

揚げ鍋に胡麻油。

ストックがなくなっていたので、新規のもの。

予熱をしておく。

玉子を二個割りほぐし、氷を二つばかり入れておく。

これが玉子水。

内儀(かみ)さんに大根おろしと皿、紙、天つゆの

用意を依頼。

順番はきすからかな。

粉は市販の天ぷら粉。

両面にまぶしておく。

予熱をして止めておいた揚げ鍋に再点火。

玉子水とは別の器に衣の用意。

玉子水を入れ、てんぷら粉を薄めに溶く。

粉をまぶしたきすの尻尾を持って、衣の容器を両面

泳がせる。

衣を油にたらし、油温の確認。

OK。よい加減に上がっている。

二匹投入。

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6枚、どんどん揚げる。

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揚がったものから、一度座って、食べる。

まあ、無難に揚がってはいる。

少し食べて、すぐに白魚にかかる。

一気に揚げないと、つづかないのである。




つづく


 

上野・洋食・ぽん多本家

dancyotei2018-09-17

またまた、少し前のものになってしまったが、 ここ。

9月7日(金)夜

金曜日。

オフィスの帰り、なにを食べようか考えて
上野[ぽん多本家]。

毎週、金曜日となるともうぐったり、
で、ある。

今週は、関西の台風の翌日大阪出張。

大阪中心部ではあまり感じなかったのだが
尼崎に近いところでは、停電で信号機が消えており
渋滞。あるいは川沿いは冠水。
橋の通行止め。
いつもであれば、タクシーで5分程度のところが
1時間もかかってしまった。

そんな一週間。

洋食[ぽん多本家]。

上野界隈の食いものやで、ここは別格であろう。
むろん安くはないが、うまいし、癒される。

御徒町を降りて、吉池の脇を抜け、
パンダ広場を斜めに突っ切り、カフェ・ド・クリエ
角を左折。ファミマが右にあって通りに出て、右。
右側、30mほど先。

いつもの通り重い木の扉を開けて入る。

カウンター右側に男女の先客。

一人といって、左の端の席に座る。

品書きがくる。

いつも、今日はなにかカツレツではない、他のもの
と思ってくる。

今日は、奮発してまだ一度も食べたことがない
“時価”のあわびのバタ焼き、と思ってきた。

だが、幸か不幸か、今日は切れているよう。

はまぐりバタ焼き、もうまい。

フライ類も、イカフライ、穴子フライ、、。 どれも格別にうまいのだが、、、、

やっぱりカツレツ。

定番のカツレツには勝てない。

二人以上でくればカツレツに他のものを
頼むこともできるが、、、。
一人だと、どうしてもカツレツになるのである。

ビールとカツレツ!。

ビールはキリンラガー。

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お通しは、いか下足のぬた。

ここのお通しは毎度書いているが、
とても洋食店とは思えない。

いか下足のぬたは一番多いかもしれない。

材料のいかはもちろん、フライにするので
いつもあるのであろうが、白味噌の辛子酢味噌の
塩梅がむろんのことプロの業。

明治38年、1905年創業。
今年で、なんと113年。
今、目の前でカツレツを揚げているご店主は4代目という。

いつ頃から、こんな和のものをお通しに
出すようになったのであろうか。

店に伝わってきたものなのか、
どなたか和食の修行もされたのであろうか。

113年、4代の間にどんな歴史があったのであろうか。
一度お聞きしてみたい。

と、きた。



浅い揚げ色。
右側に一つだけあるのは、ポテトフライ。

なぜであろうか、ここは必ずこれが付く。
茹でたじゃがいもに衣をつけて、揚げたもの。

カツは塩だが、キャベツにソースをかけまわす。



見よ、この薄桃色の肉の色。

このところ、カツレツにはソースは完全にやめて
塩のみで食べることにしている。

このうまみたっぷりの肉と、浅い揚げ上がりだが、
さっぱりと食べられる衣は塩のみで、必要十分。

浅い揚げ上がりというのは低めの油温で
じっくり揚げているということ。
こういう揚げ方をすると普通は、どうしても
油切れがわるくなり、ベトッとした揚げ上がりに
なりがち。
ここはそのバランスを取って、スッキリした
揚げ上がりにする技を持っているということ。

私の感じ方が変わってきているのかもしれぬが
ここにきて、このカツレツを食べるとそのたびに
うまくなっているように感じる。

一切れ一切れを、大切に、大切に食べたくなる。
まさに一切れが珠玉のもの。

これを食べて幸せを感じない人は
いないのではなかろうか。

残念だが、食べ終わりがやってくる。

立って帳場へいってお勘定。

毎度、ありがとうございます。

ご馳走様でした。

一週間の疲れが、とけた。

台東区上野3-23-3
03-3831-2351

〜〜〜〜〜
関西の台風被害は関空やその後の北海道地震
あまり報道されなくなってしまったが、その後
復旧されているのであろうか。
様々、被害に遭われた皆様、お見舞いを申し上げると
ともに、一日も早い復旧、復興をお祈りいたします。





 

磯田道史氏著作から「通史的思考」と「民衆の視点」その4 さらに岩

dancyotei2018-09-13


岩淵先生の「江戸ブームへの問題提起」について
見てきた。

江戸検定であるとか、日本橋ルネッサンス、その他、
私なども無関係ではない。
江戸というだけで、どうもヨサゲなイメージがある。
近世江戸を研究フィールドとされている専門家からは
詳細検討されないで江戸はよかったとする論が多くあって、
気を付けなけれ行けないという提言がされている
ということである。

過去のことであり、素人にはよい面しか伝わらない。
また、東京地元の人間であれば、なおさら負の側面は
見たくないのは当然のことではあるが。

「江戸趣味」あたりまではまあ、史実と違っていても
大問題である、ということもなかろう。しかし、
どちらにしても、現代の価値観を投影して、史実に
反して、美化し江戸が理想郷のような論調がそこそこの
専門家から出てくるのは問題ではあろう。

さて、そこで、である。

今書いた「江戸趣味」のことである。
大問題ではない、と書いたが、これも実は気をつけたい
のである。

着物を着て浅草の料亭で、扇を投げる遊びをするのが
流行っている!?。
どうもそういうことがある。

これは「江戸趣味」であろう。

実際の東京の芸者さんがどんなものであったかは
この際はどうでもよいのであろう。
江戸でもなく、実際の芸者遊びは明治大正、昭和初期であろうが、
そんなことはどうでもよいのである。
ある種のコスプレゲームというのか。

岩淵先生はこのあたりも研究されている。

『明治・大正期における「江戸」の商品化 三越百貨店の「元禄模様」と
「江戸趣味」創出をめぐって』(国立歴史民俗博物館研究報告
第197 集 2016年)という論文を読んでみた。
(この周辺のものは他の方々の研究も既にいくつかある。)

「江戸趣味」というのは商売になるのである。
事実、浅草の料亭がそういうイベントを催せば、
お客がくるのである。(だれか仕掛人がいるのであろう。)

岩淵先生のこの研究は、既にこうした「江戸趣味」の
商品化は明治大正期にかけて、出始めているというのである。
江戸時代に生きていた人々がいなくなった頃である。

三越やら白木屋高島屋は、元禄模様などといって、
新しい着物の柄を発表し、新橋やらのきれいどころの
芸者さんに着せて、今いうキャンペーンのようなことを
して、流行らせたという。この場合の新橋芸者というのは
映画すらない時代、今でいう、アイドル、モデルと
いった人にあたる。
当時は新橋や柳橋の芸者さんの売れっ子はブロマイドが
出ていたほどなのである。

ともあれ、商売のために手法として「江戸」を使った
ということなのである。

これが、ちょうど江戸に生きていた人々が、いなくなった頃に
始まっているのである。これもポイントであろう。
文句をいう人がいなくなった頃。実体験として江戸を知らない人々が
主流になった頃、ということになろうか。

その後もこうした「江戸」を持ち出した「江戸趣味」は
様々、商売に使われてきているという。戦後も同様で、
昨今の「江戸ブーム」もなん度目かのものといって
よいようである。

さて。

商売としての「江戸趣味」のことはわかったのだが、
ここで気になるたのは、単なる江戸“趣味”ではなく
「江戸」をどのようにとらえようとしていたのか、
ということ。

もちろん、三越やら百貨店は新しい着物(反物)が売れれば
よかったわけである。そこになんらか芸術性すらどうでもよく、
思想のようなものなどむしろ入ってほしくはないもの
であったろう。

三越であれば、当時「元禄会」なる諮問委員会のような
ものを催している。まあ、実際には後援のような格好で、
表には出たり出なかったり、文化人、学者のような人々を
寄り集めて話をさせているのである。

つまり、明治の終わりに近い頃「江戸」なり「元禄」なりを
テーマになんらか思うことを話してくれということではあるが、
本来は、なにか箔をつけたい程度の意図なのか、アプトプット
らしきものは特になく、その後、三越などとも離れ、この会は
自然消滅しているようである。

この論考には、この「元禄会」なるもので誰が江戸の
なにかについて、どんなことをいったのかについては
ある程度触れられているが、メインのテーマである
「江戸趣味」がどのように生まれたのか、から外れるからか、
体系的に深くは論じられていない。

つまり、明治も終わりに近い頃、ある程度の知識人で
江戸を知っている人、知らない人、いろいろな立場の人、が
(ファッションではなく)「江戸」をどのように見ていたのか、
ということである。

まあ、この領域に入ると「元禄会」だけではもちろんなく、
もっともっとこの時代の多くの分野、人々の史資料の検討を
しなくてはならなかろう。

実のところ私の興味もこのあたりにある。

単なる江戸の社会、風俗だけでなく、もう少し高次の
文化論というのか、芸術論というのか、そのあたりの
思想の検討というのか。

コレ伝わっているであろうか。

少しわかりやすい例を引こう。
例えば、永井荷風先生。
岩淵先生はこの論文でも荷風先生は少し触れられている。

永井荷風といえば江戸趣味!?。
「外国への滞在を経て「江戸趣味」へ傾倒していった永井荷風
あるいは「現実逃避」などとも(前掲・岩淵 2016年)と評している。
私もなん度も読んでいるが荷風先生の「日和下駄」

【復刻版】永井荷風全集第13巻 随筆・評論(一)―紅茶の後/雑草園(其一)/妾宅/大窪だより/日和下駄 (響林社文庫)

などでも、「江戸」への憧れ、東京の街から「江戸」がなくなっていく
ことへの強い惜別の思いが繰り返し綴られている。
荷風先生の「江戸趣味」が、現代において浅草の料亭で扇を投げて
遊んでいる人と同じとは思わぬが、まあ広くいうと「江戸趣味」
になるのであろう。

であれば、はかくいう私も「江戸趣味」であろう。
家には長火鉢があって、落語をする。
この「江戸趣味」がなんなのか。
私にとっては私そのもののような、、、。
とても一朝一夕に答えなど出せるはずもない。
ゆっくり考えよう。




この稿了




 

磯田道史氏著作から「通史的思考」と「民衆の視点」その3 さらに岩

dancyotei2018-09-11


さて、磯田先生から岩淵先生に話題は移っているが
「江戸ブーム」について考えている。

火消しのこと。

明治以降はむろん消防組織ができて火消しから
取って代わっているのだが、江戸期の消防イコール
町火消しという一般のイメージではある。

町火消しというのは、享保期、吉宗の頃、町奉行大岡越前
よって組織されているが、それ以前は、幕府の火消し組織、
定火消しと、各大名家が行なう大名火消しがその任に
あたっていた。
忠臣蔵浅野内匠頭はこの火消し活動が大好き
であったというのはよくいわれている。

だが享保期の町火消し登場後、定火消しや大名火消しが
有名無実になったのかといえば、そんなことはなく、
並行して存在しちゃんと仕事はしていた。
岩淵先生の『「創られる「都市江戸」イメージその
虚像と実像」(週刊 新発見!日本の歴史30)』

週刊 新発見!日本の歴史 2014年 2/2号 [分冊百科]

には、ちょうど、上野あたりの火消しの縄張りの図が出ている。
私の住む元浅草七軒町あたりは一番近くの大名屋敷
秋田藩上屋敷」(今の佐竹商店街)の「近所火消し」の
三丁四方という範囲に入っている。町火消しでは「を組」の
テリトリー。町火消しの活躍ばかりが強調されるのは誤り
であると。

町火消しがヒーローになる歌舞伎「め組の喧嘩」。
落語にも勇み肌の火消しは登場する。
歌舞伎にしても落語にしても町人の視点である。
研究もこの視点でされてきた。
町火消しの史・資料情報はたくさん調べられてきたが
それ以外は手薄であったということであろう。

私なども気を付けなければいけないことだと思うが
江戸については逆に、町人(民衆)にばかり光が当たっており
一般の武士についての研究はあまりされてこなかった
ということなのかもしれぬ。

いろいろな説があってはっきりはしないが、後期の天保の頃で江戸の
人口は100万〜130万人。この内、町奉行支配下の町人59万人、
神官・僧侶など6万、諸大名所属36万、幕府氏直属の旗本家人所属26万、
町奉行支配範囲外の町人・百姓等4万という。(鷹見安二郎氏
「江戸の人口の研究」1940年 ちょっと古いか)。

大名の江戸在府の家来とその家族・使用人、幕臣、旗本・御家人の家族、家来、
使用人合わせて60万人。江戸の人口半分は武士関係といってよいのだろう。
武士の政治向きの歴史研究はたくさんあろうが、彼らの生活については、
やはりあまり深い研究はされてこなかったということかもしれぬ。

落語などでは、武士特に大名の家来で国元から出てきた者を田舎者として
馬鹿にするのが定番である。「しびん」なんという噺がある。
骨董屋がこういった田舎者の武士に病人が小用に使うしびんを
知らないのをよいことに、よいものであるとして、高価で売りつける
というもの。

岩淵先生によれば、青森の藩から江戸に勤番で出てきた武士が
父親から細かい買い物リストと店の名前、価格まで書かれたものを
渡されてその通りに買い物し、実際の価格を書いているというものが
あったという。
つまり、田舎から出てきた武士も江戸の事情はかなり詳しく
知っていた。また、逆に、江戸の浄瑠璃(清元、新内など)や
木遣りなどかん高いばかりでちっともよくない。寺社はやはり
京都の方が上だ、なんというコメントもあるという。(前掲)

まあ、音曲は聞き慣れないものは拒否することもあろうが、
寺社は京都の方が上というのも、これはまあ歴史が違いすぎるので
当然であろう。私もそう思う。
「しびん」のようなことは、稀に、たまたま出府一日目で
同輩などにもなにも聞かずに江戸を歩き回ってへんな対応を
してしまったという人はあったかもしれぬ。まあ、それは今でも
ありそうなことではあるが、江戸期は高度な情報社会であった
ことは知られており、全国津々浦々どんな田舎でも、
江戸の名所案内、買い物案内、吉原案内(吉原細見)などの
情報書の類は広く流布しており田舎の人も江戸の事情は常識の
範囲内であったのは間違いなかろう。

他に、江戸はエコロジー都市であったという論がある。

長屋の共同便所の糞は下肥(しもごえ)として畑に戻された。

これは戦前、戦後すぐまで行われていた。
オワイという言葉をご存知であろうか。
私なども子供の頃聞いた記憶がある。汲み取ったモノのこと。
(辞書を引いたら東京方言とのことである。)
汲み取り業者をオワイや、などともいっていた。
明治以降も、東京の街で汲み取ったオワイは大八車、その後トラック
さらに鉄道で郊外へ運ばれ農地で利用されていたのである。

落語家は枕で、大家と喧嘩をすると店子は、
長屋の厠(かわや)で糞をたれねえぞ、などと
汚い啖呵を切った、という。

長屋の店賃(家賃)は家主のもので大家さんはいわば
代行して取り立てていただけ。しかし、長屋の共同便所の
汲み取り(オワイや)から費用を取っていたので
あるがこれは大家さんの収入になっていたという。

あるいは、古紙(紙屑)の回収などをする、くずやの存在。
古紙は、浅草北部、山谷などで漉き直して質はわるいが
浅草紙として鼻紙、落とし紙(便所紙)に再生していた。
鉄、銅など金属類も回収して再利用する仕組みは存在していた。

こんなことを材料に既に江戸ではリサイクル社会が
出来上がっていたという議論がある。

江戸のリサイクルは、これは今も変わりはないと
思うのだが、経済合理性から行われていたものであるという。
つまり、回収すれば金属ならば鋳つぶして再利用が可能で
商品価値があったから。紙も、再生して売れるというニーズが
あったから。

これに対して例えば、壊して再利用が不可能な陶器の類は、
ガンガン捨てられていたという。例えば酒屋などの通い徳利。
使い終わると再び酒屋へ持って行って詰めてもらうようなもの
なのだが、無傷のまま大量に江戸の住居跡遺跡から出土することが
多いという。『近代になって「ものを大切にする心」が突然失われた
わけではない。』(岩淵氏・前掲)ということである。

まあ、虚実、いろいろあるわけである。

もう一つ、衛生状態のこと。
幕末に来日した外国人によれば江戸の街がきれいであるという
コメントを多く残している。あるいは、上水、下水がご存知の通り、
江戸の街が建設された頃から整備されていた。
神田上水玉川上水は知られている通り。
木製の水道管であるが、メンテナンスをされながら
明治初期まで存在し、使われていた。
ただ、下水は上水同様流す設備はあるが、処理されず
そのまま近くの堀や川に流されていた。
比較の問題であると思うのだが、東南アジア、中国、インド、
その他欧州も含めて、同時代の大都市としては衛生状態は
わるくはなかったのではあろう。
ただし、近代的な衛生の知識からすれば、むろん劣ってはいる。
岩淵先生によれば(前掲)、上水と下水の菅が末端では平面で
交差していたともいう。江戸ではコレラなど伝染病の類は定期的に
流行し、少なからぬ人々が亡くなってもいる。



もうちょいと、つづく




 

磯田道史氏著作から「通史的思考」と「民衆の視点」その2

dancyotei2018-09-10

引き続き「磯田道史氏著作から」。

私流の言葉にすると「私たちはどこからきて、どこへ行くのか」
「通史的思考」が大切であるという視点。

それからもう一つ磯田先生も参加されている
日本史学者のシンポジウムで「戦乱と民衆 」(講談社現代新書

戦乱と民衆 (講談社現代新書)

で焦点をあてられている「民衆の視点」のことを書き始めていた。

文化、芸術、風俗、あるいは生活文化史のようなものの
研究分野では、その主体は特定の人々ではあろうが、
やはり、民衆であるのだと思う。
しかし、日本史の本流の研究では民衆を主体に研究する
というものではなかったのだが、これが変わってきている
ということといってもよいのかもしれない。

民俗学だったり、江戸落語だったりに本拠を置く
私とすれば、民衆の視点というのは、いうまでもないこと
ではある。

さて、そこで、磯田先生の著作の参考文献であったか、
いろいろ関連の論文などを読んでいると、
またまた、気が付いたことがあった。

どちらにしても、私のメインフィールドは
江戸時代の江戸から明治以降の東京なのだが、
江戸時代の江戸というと気を付けなければ
いけないことがある。

磯田先生からちょっと離れていくが触れておかねば
ならない、大きな問題である。

江戸ブームである。
落語ブームでもあるが。

いつ頃からなのであろうか。
随分前、バブルの頃からずっと、か。

なんとなく私もそれに乗っかってしまった、
ような気もするが。

江戸ブームは、日本史で近世(江戸時代)を扱う
研究者などの間からは、少し前から疑問符を投げかける論が
出ているということは私も知っていた。

ともすると、江戸ブームというのは江戸ユートピア
というのか、江戸時代(の江戸)はよかった、という
美化された江戸イメージがなんとなく作られている、
ことへの専門家からの反論ということである。

今までここでなん回も書いてきたが、
私のごく興味のあるところで、花街(=芸者町)を
研究する分野がある。よく引用させていただいている
加藤政洋先生(花街: 異空間の都市史 2005)あたりの研究である。
加藤先生は日本史ではなく、歴史地理というのか人文地理
の先生ではあるが。

花街=芸者町というと、京都の祇園だったり先斗町だったり
江戸情緒溢れる、なんという枕言葉が付き、人気になり、
浅草あたりの料亭で扇を投げるお座敷遊びなどに
興じたりする人も出てきている。

これなぞも、江戸ブームの文脈といってよいのだろう。

しかし、花街=芸者町の実態と今、好ましいものとして
耳目が集まっているものとは大きな差があるということ。

全国的にみれば地域、特に京都と東京は大いに違っているし、
時代によっても違っている。
これも毎度、ここで書いているが、江戸・東京に
おける芸者町は“江戸情緒あふれる”という枕詞とは
違っているところが少なからずある。

そもそも、東京の芸者町=花柳界は明治以降に
できているところが少なくない。これらは既に
“江戸情緒”ではなかろう。(江戸趣味という言葉が
あるがこちらであろう。)
江戸までさかのぼれるところも江戸期には岡場所
(私娼街)で三業地として制度化されるまでは
その状態が続いていたといってよかったわけである。
場所によっては、三業地となってからも私娼街と
実態は大差ないところも少なくはなかった。

学習院女子大学の教授で岩淵令治という先生がいる。
江戸を中心とする近世都市史が専門。

この方などが、美化され、創られた江戸像に対して
史料を以て反論をし、また、どうして、どのようにして
そうした美化された江戸のイメージがでできていくのかを
研究されている。

週刊 新発見!日本の歴史 2014年 2/2号 [分冊百科]

(『「週刊 新発見!日本の歴史30」「江戸・大坂・京の
三都物語」』など。)

そもそも、江戸は家康が入り本拠とし、城下町を造り、
その後100万の人口を持つ世界一の大都市になっていたのは
間違いはない。しかし、それ以前はまったく人がいなかったのか
といえばそうではない。
私も書いているが、例えば浅草などは律令時代の
街道が通り隅田川を越える渡船の拠点で浅草寺周辺には
古くから集落、町があった。

また、こんなこともある。
明暦3年(1657年)のかの明暦の大火によって江戸が焼かれその後、
江戸の街は郊外へ発展した、といういわれ方をされることが多い。
かの新吉原もこのタイミングで今の人形町の元吉原から、浅草北部の
新吉原へ移転している。しかし、これは大火によって移転したのではなく、
手狭であるのと都心部悪所を置いておくのはよろしからず、というので、
移転は既に決まっており、たまたま大火があっただけであった。

前掲「週刊 新発見!日本の歴史30」(金行信輔氏)によれば、
近年、最古の江戸全体図「寛永江戸図」が発見されている。
寛永19年〜20年(1642〜43年)の地図で、家光の頃。開府から40年程度
である。この頃、既に江戸の町域は外濠の外へ大きく広がっており、
江戸開府当初の中心部は既に埋まってしまっている。明暦大火後の
寺社などの郊外移転や本所深川の開拓、開発など、江戸の街の再開発は
むしろ遅すぎたくらいであったといえるのかもしれぬ。

江戸城の濠は内濠から「の」の字を書くように造られており、これが
都市域を拡大可能に設計されていると評価する論がある。開府から40年
程度で既に再計画、再開発しなければならなかったのは、まあ、
誤算であったのであろう。

また、岩淵先生はこんなことも書いている。
火消しのこと。

「火事と喧嘩は江戸の華」なんというのが
昔から言われていきた。江戸っ子の象徴ともいえる火消し。
この場合はもちろん、町火消しのこと。

私も毎年書いているが我が鳥越祭でも町会など
神輿の準備その他祭の裏方は、彼ら江戸町火消の流れを
汲む鳶の方々が携わっている。





もう少し、つづく




 

磯田道史氏著作から「通史的思考」と「民衆の視点」その1

dancyotei2018-09-09

さて、突然だが、磯田道史という人をご存知であろうか。

国際日本文化研究センター准教授、日本近世史学者。
1970年生まれで今年48歳。

歴史好きの方はご存知かもしれぬ。

映画「武士の家計簿」の原作。
NHK・BSのの「英雄たちの選択」の司会をされている。

この先生、前から気になっていたので、この夏休みから
kindleで買える著書を軒並み読んでみた。
その中で、そうである!、と膝を叩いたことを二つ
書いてみたい。

一つ目は「明治維新で変わらなかった日本の核心」(PHP新書

明治維新で変わらなかった日本の核心 (PHP新書)

という著作。これ自体は猪瀬直樹氏との対談をまとめたもの。
明治維新”とタイトルでいっているが、古代から近現代までの
我が国を“通史”として政治経済その他がどのように
変わってきたのか変わっていないのかを考えている。

磯田氏はあとがきでも「歴史で一番大切なのは『通史』である。」
といっている。

「通史」というのは、時代を越えて歴史を考えるというような
概念といってよいのか。
日本人はこういった「通史」という考え方は苦手であるという。

教科書でも学校の教え方も時代毎であるし、研究者も専門分化が
はっきりしており、奈良時代であれば古代史、室町時代であれば
中世史、江戸時代であれば近世史、とそれぞれの研究分野が分かれ、
その専門分野を掘り下げて研究している。
まあ、蛸壺といってよいのか。

一般の歴史好きの人も、戦後国好き、幕末好きなど、
好きな時代が決まっている。

私は、以前から書いていたと思うか、
「私たちはどこからきて、どこへ行くのか」ということを
明らかにすることが大切であると思っている。

日本史学者、日本民俗学者、その他日本をフィールドとする考古学
歴史地理学者、社会学者、文化人類学者、経済、金融、文学、言語、
心理、宗教、演劇、音楽、芸能、絵画もろもろのすべての
人文社会学系の日本研究の最終的なミッションの一つは
「私たちはどこからきてどこへ行くのか」を日本社会に物申すこと
ではないか、と考えるのである。

私自身は大学で日本民俗学を学んだ。
日本民俗学は史学ではない。
史学と民俗学の違いは同じ日本社会を扱っても、
文献史学などというが、日本史学は基本的には文献、古文書を
ベースに研究をし、時代、年代という時間軸の概念を持つ。
民俗学は基本的には文献は使わずに、そこに住んでいる
人々へのインタビュー調査、フィールドワークをもとに
研究をし、時間軸の概念は持たない(と習った)。
(もちろん、どちらも原則論として。)

つまり、民俗学では研究対象のムラなり社会がどんなものなのか、
という、史学でいうところの通史のような考え方をするのため
「私たちはどこからきてどこへ行くのか」ということが大切である
というところに行きついたのかもしれない。

ここで、ちょっとだけではあるが、なん回も書いているが
私自身のバックグラウンドを書いておく。

私自身は東京の出身である。大学の民俗学の学科では学部の
卒論は最も身近な自分の故郷へいって書けといわれていた。
しかし、当時日本民俗学ではマチ、都市は扱わないというのが
原則で、私の故郷である東京は対象ではなく大学で民俗誌の
編纂を依頼されていた、新潟県最北の山北町
調査に入れてもらい、卒論(らしきもの)を書いた。

そしてその後、サラリーマンをしているうちに、江戸落語
立川談志家元)に出会いのめり込み、落語を習い
自ら演じるようになった。演ずることもしながら、
過去の名人のものも含めておそらく世の中に残っている音は
ほぼすべて集め聞いている。噺もおそらくかなりの数を知っている
と自負はしている。(知っているだけで喋れるわけではない。)

また、もう一つ、池波正太郎先生の「鬼平犯科帳」他2シリーズの
江戸庶民を描いた作品群に接し、これらも私の骨肉になっていった。

大学で江戸、東京の民俗を研究できなかったのが、江戸落語
池波先生にのめり込んだということになっていたのだと思っている。

ともあれ、そんなことで一時期NHK文化センターさんの講座
池波正太郎と下町歩き」なんというものをやらせて
いただいたりもした。(料理、食い物のことは、まあ、
枝葉ではある。)

この講師をさせていただいた経験で自ら自覚したのは
歌舞伎のこと。江戸、庶民、民俗、というキーワードを
掲げながら、歌舞伎というものは、私の頭の中にはほぼ完全に
欠落していた。これは圧倒的な弱点である。
歌舞伎を知らずに江戸庶民を語ろう、などいうのは、
まったくもって片腹痛いことであると気付き、その後
勉強のつもりで、年に数回ではあるが観るようにし、
また、資料も読み、都度できるだけ深くその芝居や役者を
知ろうとしてきてはいる。また、そのアウトプットというのか、
観劇記のようなものもここに書いてきた。
この中で、考えてきたのは、江戸落語とやはり関連するが、
河竹黙阿弥翁の芝居群である。
時代として落語と重なると思うが、幕末から明治のもの。
このあたりにかなり惹かれている。

とまあ、以上のようなバックグラウンドで、
「私たちはどこからきて、どこへいくのか」を考えていたり
するわけではある。

必然的にこの「私たち」は江戸人、東京人になってきたり
しているわけではあるが、まあそれでも語るのには足りていない
ものがまだあるのは自覚はしている。

と、ここまでが「通史的思考」、「私たちはどこからきて
どこへいくのか」にまつわること。

さて、もう一つ。磯田先生の著作で気になったこと。
これも複数の日本史学者のシンポジウムで「戦乱と民衆 」
(講談社現代新書

戦乱と民衆 (講談社現代新書)

というもの。
古代から近代まで、各時代毎の戦乱の中で民衆はどうしていた
のか、というテーマ。
歴史というのは、民衆という視点で研究されたものは
今まではどちらかといえば、枝葉であった。
信長やら、秀吉やら、坂本龍馬やら西郷隆盛が主役であった。
しかし、大坂の陣で大坂の民衆はどうしていたのか。
禁門の変で京都の町は焼かれたのだが、この時京都の町の人々は
どうしていたのか、といった切り口である。

昨今、私の知る範囲でも特定の分野で、近世(江戸時代)などでは民衆に
焦点をあてた研究群は皆無ではない。
しかし、全体をみれば、やはり政治であったり、文化でも耳目を集める
対象が研究の主体であったのだと思われる。

名もない人々、町民、農民などを対象にしたものが
先ほどの通史同様に、日本人というのは何者であるか
ということを考える際には欠かせない視点であることは
いうまでもなかろう。



つづく




 

食べたものいろいろ。その3

dancyotei2018-09-06


引き続き、食べたものいろいろの、秋刀魚。

アメ横で買った格安の秋刀魚、刺身、塩焼きで

食べてみたら、噂通りの脂ののりを確認できた

翌、第一食。

やはり、秋刀魚の塩焼きには大根おろし

必須であろう。

買いに出る。

大根も今、意外に安くない。

一本だと200円弱。

まあ、高くもないか。

半分を購入。

おろし用なので、辛み強めの先端部分。

飯も炊く。

味噌汁もあれば、とも思ったが、

暑いのでやめておくか。

やはり半分に切ってガスのグリルで焼く。

最近のガスのグリルは両面から火が出て焼けるものが

あるようだが、拙亭のものはもう15年以上前のもので

片面のもの。

もちろん、マンションのシステムキッチンに造り付けのもの。

特段故障などしておらず使用には問題ないが、

このグリルだけ新型に替えるようなことはできるので

あろうか。

脂が強いせいであろうか、なにか早く焼けるように

感じられる。これは事実そうなのではなかろうか。

脂というのは熱伝導がよさそうであるし。

大根はたっぷりとおろす。

漬物は奈良漬。以前京都から取り寄せたものの最後。

やっぱり脂ののった焼き秋刀魚には、

おろしは欠かせない。

私は秋刀魚の場合ははらわたも食べる。

特に少ないとはいえ苦みがあって、また、脂も多い

はらわたにはおろしが必要である。

大根おろしを添えて、しょうゆをかけて

脂ののった秋刀魚を、白い飯で食べる。

まったく、超定番かつ、この上なくうまい、

秋の食事ではある。

しかし、このうまい秋刀魚にここ数年来お目にかかれなかった

というのは、まったくもって寂しいことであった。

さて、もう一つ。

脂ののった秋刀魚といえば、秋刀魚飯。

これもやっておこう。

まず最初に米を研ぐ。

水加減時に、酒、しょうゆを入れ、残りを水にする。

秋刀魚飯にはちょっと濃いめの味付けがよろしかろう。

酒もしょうゆも多め。

酒の量が多くなると浸水に時間がかかるので、

夕飯用に午後一から浸水を始めておく。

少なくとも3時間は見ておく必要がある。

夕方。

魚の炊き込みご飯は大方皆同じ。

白焼きにし、浸水の終わった米にのせて

一緒に炊く。

この時、先日の鮎飯の時にも書いたが、

はらわたは抜いておかないと、まったく食べられないものに

なってしまう。

秋刀魚二匹、半分に切ってはらわたを抜き、

塩をせずにそのまま焼く。

焼けたら、炊飯器の釜へ。

あとは普通に炊けばよい。

電気が切れて、炊きあがり、蒸らし時間も取って

ふたを開ける。

一度秋刀魚だけを取り出し、頭を取り中骨を抜く。

小骨などはよろしい。そのまま、身をほぐす。

これを混ぜ込む。

飯茶碗に盛り、もみ海苔も散らす。

生姜などを入れる向きもあるが、私は酒としょうゆのみが

好みである。漬物は柴漬け。

秋刀魚のうまみと脂が飯に染みて、実に堪えられない。

秋刀魚飯は、それこそもっと脂の多い、ベトベトで

塩焼きではちょっとヘビーというような秋刀魚の食べ方

として、最適である。

これで今年最初の帰ってきた秋刀魚らしい秋刀魚食べ尽くし、

終了である。

さて、今年の秋刀魚、なぜ急に脂がのったものが

たくさん獲れるようになったのか。

いろいろ報道されてはいるが、コレという理由は

実のところよくわかっていないようである。

NHKで報道していたのは、このところの台風などで

北海道、道東沖の秋刀魚漁場の海域の水が台風でかき混ぜられ、

水温が下がり、秋刀魚の好む温度になってきたから、という

専門家の見解を示していた。

だが今年はなぜ久しぶりに脂がのっているのか、というのは

今一つ納得のいく説明はできないようであった。

実のところ、秋刀魚の生態というのはよくわかっていない

というのも本当のところのようである。中国や台湾などを交えて、

関係する国々で漁業交渉が7月に行われ、秋刀魚の漁獲枠を設けるように

我国は提案したようである。しかし、中国などは必ずしも秋刀魚は

減っていないと主張し、受け入れられなかったという。

秋刀魚は減っていないというのは正しいという専門家もある。

道東沖の海水温の上昇で秋刀魚が漁場に来なくなっているだけという。

海水温が上がっているということの方が趨勢だとすると、

今年は特別で、また来年は不漁かつ脂ののらないものしか獲れない

状況に戻ってしまうのではなかろうか。

脂がのった秋刀魚が多く獲れなければ無理して(高い金を出して)

食べることはないというのが原則的には持論ではある。

ただやはり、こうして久しぶりに彼ららしい元気な姿を見ると、

うなぎかば焼きなどと同様、我々の立派な食文化であることを

改めて思い出させられる。

あまり無理をせず(お金もかけず。)うまい秋刀魚が

毎年食えるのが理想ではあるのだが、専門家の皆様、

なんとならぬものであろうか。