浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。
断腸亭料理日記本店
 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その20

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幽霊からせしめた百両の問題である。

あらすじで書いたが、円生師(6代目)のCDでは伴蔵の志丈への告白で

「幽霊から百両を取ったというのは、手引きをするものがあって、
 あっしが百両の仕事をした。」といっている。

“手引きするもの”と別の者(?)の存在をいっている。
これは私は新三郎殺しとは別の仕事と取れると先に考えたのだが、
もう少し考えてみると、次の二通り考えられると思う。
新三郎と関係のない別の仕事、と考える。しかし、それで百両もらえる
のであれば、新三郎を殺す必要はあまりなくなってくる。
(皆無ではなかろうが。)
と、すると誰か「手引きするものがあって」新三郎を殺してくれと
頼まれた、ということか?。幽霊にではなく。誰に?お国に?。
お国源次郎に新三郎を殺す動機はなさそうだし、百両も出せなかろう。

この部分、速記ではどうか。
「実は幽霊に頼まれたというのも、萩原様のああいう怪しい姿で死んだ
 というのも、いろいろわけあってみんなわっちがこしらえたこと、
 (中略)おれもまたおみねを連れ、百両の金をつかんでこの土地
 (栗橋)に引っ込んで今の身の上、、」

幽霊に頼まれたのは作り事であり、百両がどこから出てきたのかは
まったく書いていない。
「みんなわっちがこしらえたこと」という表現は幽霊から取ったのでは
ない、とも取れると思うのである。

いずれにしても、この部分、幽霊からもらったのではないとすると、
ストーリーの破綻という言い方もできようし、また、これは円朝創作
当時から曖昧に作られているといってよいだろう。

先に書いている通り、曖昧でも、お客が気が付かなければ、あるいは、
お客が納得していれば、映画や文学ではない落語=話芸としては
十分成立するのである。

むろん、この噺は円朝自身もなん度も演じているであろうし、弟子達も
繰り返し演じている。また、こうして文字に残ってもいるので、曖昧な
部分に“突っ込み”を入れる者があったとは思う。
実際に円生師(6代目)では“手引きするもの”と少し踏み込んだ表現に
なっている。
だがまあ、長い長い「牡丹灯籠」全体とすれば、曖昧なままでも結果
として許容されてきたと理解してよいのではなかろうか。
いかがであろうか。

さて、そんなことで「牡丹灯籠」の半分、伴蔵のお話。
小心な伴蔵であったが「慾によって「悪党」へと変わっていった」。
「その後のおみね、山本志丈殺しに関して伴蔵に一切のためらいは
な」かった。
これが円朝の語りたかったことと須田先生は書かれている。

さて。
「牡丹灯籠」のもう一つの、孝助の話も思い出していただきたい。

まあ、こちらはわかりやすい。
孝助が、お国源次郎に殺された主人の平左衛門の仇討を果たす。

筋は入り組んでいて、観客を飽きさせないエンターテインメント性は
高いとは思うのだが怪異は一切なく、孝助の幼い頃に生き別れた母との
偶然の再会、さらにその母の再婚相手の連れ子がお国であった、という
因縁話も織り込まれてストーリーは進行するが、わかりやすい勧善懲悪が
成し遂げられている。

そして最後に、孝助は伴蔵の捨札を読み、もう一つの話も知って
「主人のため娘のため、萩原新三郎のため、濡れ仏を建立」する。
「「伴蔵の半生」=慾と悪は「幸助の物語」=忠義と義理に回収されて
終わる」(須田先生)。
パラレルに進行する物語全部を通しての勧善懲悪が完結する。

一方でこの幸助の話。エンターテインメント性は高いとは書いたが
「お札はがし」をはじめとする、伴蔵の話と比べると、どうしても劣る。
ちょいと退屈。現代にレアとはいえ「牡丹灯籠」が演じられる
場合にもこちらはほぼ聞かない。だからこそ伴蔵の話と交互に演じたの
かもしれぬ。
そして幸助の物語は幕末から明治にかけてウケた、必要とされたテーマで
あったということなのかもしれない。

さて。この「牡丹灯籠」の解析、考察の結びに須田先生はさらに
以下のような考察をされている。これについて考えてみよう。

江戸落語が生まれる前夜、そして江戸落語の誕生から。

天明期(18世紀後半)、江戸には「山東京伝」が「通」を信条とする
上層町人の閉鎖的な文化があった。」(須田先生)

「通」はいわゆる、ツウ、である。
十八大通、などというが、主として蔵前の札差などの大店の主人。
そうした通人が18人いたという。
歌舞伎でいえば「助六」などがその例とされる。
蜀山人太田南畝先生などが若かりし頃、文化人として遊びまわっていた
頃のことである。
また、この頃から江戸が文化の中心として上方に優越し、また、江戸人は
江戸人であることを誇る(まあ、裏返すと田舎者を馬鹿にする)風潮が
始まった。「江戸っ子」萌芽の頃といってよいのであろう。
そして、この連載の最初に書いたように天明10年、江戸落語の芽
生まれている。

「通人文化(?)」は寛政の改革で弾圧される。南畝先生も
弾圧された。

そして「文化・文政期(19世紀初頭)、式亭三馬は裏長屋に居住する
庶民を対象に、「意気」という江戸っ子の生きざまを打ち出した。
江戸っ子とはこうあるべきだ、ここまで登れという“頂”を示した
のであった。」(須田先生)

式亭三馬は「浮世風呂」「浮世床」の作者で、化政文化といえば
この人といってよいだろう。
意気=粋を打ち出したのが、式亭三馬といってよいのかどうか、
私には断定できないが、文化文政期、こういう風潮が生まれてきたのは
間違いないだろう。
そして、寛政10年(1798年)に初代可楽が寄席を始め、この化政期に
江戸落語は初期の発展期を迎えていたといってよいのであろう。

「大衆芸能の空間である寄席は、「意気」という生き方を学ぶ場で
あった。裏長屋に居住する江戸の庶民は、落語を通じて、吝嗇・
因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、誠実さを旨とする「意気」
「たてひき」を兼ね備えた“男”こそ江戸っ子であると得心して
いった。」(須田先生)

『吝嗇・因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、誠実さを旨とする
「意気」「たてひき」を兼ね備えた“男”の江戸っ子』が
落語には出てくるし、これらが落語を構成する要素といってもよいと
思う。しかし、落語あるいは寄席のみから学んだとまでは私には
言い切れない。むろん歌舞伎もあれば、講談、その他、様々な媒体は
当時でもあった。だがまあ、須田先生も比喩的な意味で書かれている
ようなところもあるのかもしれぬ。
また、どちらが先かという問題もあろう。つまり、こういった
「意気」を尊ぶ気風が裏長屋の庶民にあったから、それが落語に
反映された、のかもしれぬ。これは、特定しようがないし、また
その意味もあまりないか。ともあれ、先生のご意見に概ね同意である。

談志家元は「落語とは人間の業の肯定である」と定義したが、
須田先生はある意味『吝嗇・因業・不実を蔑み、やせ我慢と仲間意識、
誠実さを旨とする「意気」「たてひき」を兼ね備えた“男”の
江戸っ子』を学ぶものとして落語を定義する、といってよいのか。

江戸落語は素晴らしいものであると考えてきたし、今もそう思っている。
そして江戸落語は江戸・東京の人々(一般庶民)の生活、人生の心象、
哲学を表してきたものといってよいと思ってきた。

江戸落語の大恩人三遊亭円朝師の落語とはなんなのか。さらに、
そもそも江戸落語とはなんなのか。それは取りも直さず、江戸人・
東京人とはなにかということになると考えているのである。東京に
生まれ育った私にとって、自分たちはなにか、どこからきてどこへ
行くのか、ということを解明することになると思っている。
そのために史学からのアプローチの須田先生のこの研究は新鮮で
丹念に読んで、ここに書いてきたわけである。
最後にじっくり考えたいので、ちょっとくどい書き方をしたが、
この部分は頭に置いておきたい。

 

 

 

つづく

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その19

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三遊亭円朝師が「怪談牡丹灯籠」の初めての出版から
亡くなるまでを追ってきた。

さて。
ここからは、もう一度、先にあらすじを書いた「真景累ヶ淵」と
「怪談牡丹灯籠」についてテキスト、須田先生の「三遊亭円朝
民衆世界」に沿って作品分析と考察を追う。

それぞれ、ちょっと煩雑になって申し訳ないが、
前に戻って見直してもいただければと思う。

まず「真景累ヶ淵」から。
このお話は、貧乏旗本深見新左衛門が針医者で金貸しの皆川宗悦を
殺すところから始まり、その長男新五郎が宗悦の次女お園を殺し獄門
となり、次男の新吉は「悪党」化し「凄惨な暴力を行使していく」。

この作品は基本「因果・応報と悪・暴力」でできている。

特に徹底的な暴力である。
新左衛門が宗悦、奥方、新五郎がお園、新吉が(豊志賀は自害)お久、
お累、息子、お賤ととともに惣右衛門、甚蔵。
ここから名主惣右衛門家の話になり、後を継いだ惣次郎が不良剣客に殺され、
山倉富五郎は仇討成功するが妻のお隅が返り討ち。
お賤新吉が再登場し、三蔵と共の者与助、さらに共謀した
作蔵をも殺害。
さらに仇討に出た惣吉、母。母がお熊に殺されている。

ここまで、いったいなん人が殺されているのか。
数えるのもいやになる。

そして、注目すべきポイントは「これらの暴力を外部から断ち切る
公権力(幕藩領主)の介入などは一切ない」のである。
ここ、円朝作品の重大な特徴といってよい。

そして、帳尻を合わせるように最後に因果応報、新吉はお賤を殺し自害、
お熊も自害、惣吉の仇討成功。

これで皆を浄化させ、因果応報と勧善懲悪が完成している。

真景累ヶ淵」はこんな構造になっていると。
意外に単純といえるかもしれぬ。

ただ、須田先生は「真景累ヶ淵」の考察の最後に書かれている。

安政期、円朝が「真景累ヶ淵」で語った悪と暴力の多くは、関東
周辺地域で発生したものであり、江戸ではなかったという事実がある。
ところがその後、桜田門外の変、三田騒動、そして上野戦争など、
暴力が日常空間に入り込んでくる。江戸の人々はまぎれもない暴力を
経験したのである。それは文明開化期になっても消えることのない
陰惨な記憶として残り続けたのである。人は因縁により凄惨な暴力の
担い手(悪)へと変貌するが、その悪は因果応報によって滅びていく。
円朝は因果応報と勧善懲悪を結び付け、さらに悪を浄化させる仇討ち
(自力の技)を語り込んだのである。これらの時代背景と、人びと
との中に残る暴力の記憶が、この噺を作り上げ、文明開化期に至るも
人びとの共感を呼んだのである」と。

 

では次、「怪談牡丹灯籠」

こちらは、怪談。怪異が入っているので少し厄介。
その上、怪異を否定する伴蔵の種明かし告白まであるので。

まずは「悪党」主人公といってよい伴蔵の三つの殺しについての解析。

(1)新三郎殺し
「牡丹灯籠」で最もおもしろく人気のあるプロットであろう
「お札はがし」。それから後から幽霊の仕業ではなく、伴蔵が
俺がやったと志丈に告白する部分である。この告白は文明開化期に
円朝自ら改作したのではと文学系研究者によって言われていた。

まずこの「お札はがし」の部分、注意深くCDを聞き、速記を読むと、
須田先生が分析されているように、実に、幽霊と関係を持つと、人相見の
白翁堂も良石和尚も“死ぬ”とはいっているが「“直接”死霊に取り
殺される」とは言っていない。

もう一つ、須田先生は円朝が張った伏線という、おみねの言葉。
おみねが幽霊から百両を取ってお札をはがそうとそそのかした
わけだが、お札をはがして、幽霊が入っていったあと「旦那(新三郎)
は殺されやしないかな」と伴蔵がつぶやくとおみねは

 大丈夫だよ、殺しゃぁしないよ。だってお前、恨みがあって出る
 んじゃないんだろ、惚れてお前出てくるんだもん、ねぇー。きっと
 なんだよ、口説(恋の恨み)をいうよ。ひどいわぁあなた、こんな
 ことをしてあたしを寄せ付けないで、随分わるい人ねぇ、とかなん
 とかいって、今時分はお前、仲直りをしているかなんだか、わから
 ないよ。(円生師(6代目)版)

「確かに萩原新三郎は「焦がれ死」したお露の幽霊に憑かれ生気を
失った。しかし、だからといって新三郎がお露の幽霊に取り殺された
という確証は、噺のハナからないのである。伴蔵が萩原新三郎を
殺したという筋は、文明開化を意識して変容させたのではなく、
創作当初のままであることは否定できない。円朝が「新三郎殺し」で
語りたかったことは、怪異ではなく、貧乏と貧困ゆえに慾が生まれ
その慾によって人は悪にかわる、ということであった。」と須田先生。

もちろん、そもそもこの噺はお客に聞かせるエンターテインメント
である。もし、伴蔵が殺したとしても、この場面ではお露の幽霊に
取り殺された、とお客には聞かせなければいけない。それで
どちらにしても、矛盾、不整合、あるいは曖昧なところはよくよく
注意深く読み、聞くと随所に発見できる。

ただ、前出のおみねの台詞の最後に、大丈夫だからお前さん、様子を見て
おいでな、といって伴蔵は見に行く部分である。ここも伏線といえよう。
この後、かなりの間長く、伴蔵は帰ってこない、ということが
語られる。この間に、伴蔵の手で殺し、お露の新墓を掘り返し、
骸骨を新三郎の遺体の脇に撒く、という工作をしていたということを、
暗示させているのであろうということが想像できるようになっている。

この部分も、お話の意図としては確かに、伴蔵が殺った、といっている
複線と判断してよさそうである。

(2)おみね殺し
これは、お国という惚れた女ができ、おみねに騒がれ、悪事も喋り
始めたので邪魔になって殺した。
だが、あらすじで書いたように、その描写が残酷で、壮絶。
愛欲と保身のための殺人。

(3)山本志丈殺し
これは保身のため。

結局、幽霊に殺されたものは一人もいない。すべて伴蔵による殺し。

ただ、この物語でお露、お米の幽霊の怪異だけは消えない、と
須田先生は書かれている。それは確かである。これに加えておみねの憑依という
怪異も付け加えてよいと思う。やはりこの物語が「怪異」「怪談」である
ことは残るのである。

さて、ここまでのところはよろしかろう。
しかし、私には一つだけ、疑問が残っている。

幽霊と契約して取った、百両のこと。
須田先生は幽霊から取ったと理解している。
円生師(6代目)のCDでも速記でもここは曖昧にされている、と思うのである。

そもそも、この百両がないと栗橋へ行って荒物屋は開けないので
あったことは間違いない。
本当に幽霊から取ったのか?。この問題である。

 

 

 

つづく

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その18

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引き続き、円朝師「牡丹灯籠」速記のこと。

明治17年に「牡丹灯籠」の速記が落語として初めて文字になり
発売され高価であるにも関わらず、売れた。
ちょっと速記について書いている。

速記というと国会などが思い浮かぶ。
今は国会では本会議、予算委員会などに限られるようだが、議事を
今でも速記で記録しているようである。

明治初期から国会開設の運動などと歩を同じくして速記術を
確立しようという動きが始まったのだが、なかなか実用に
足りるような技術になならなかった。
その稽古のために、試しに円朝の許可を得て口演を速記してみた
というのが最初であったようである。

速記の稽古の最初に円朝を選んだのにはむろん意味があろう。
円朝は当時の噺家人気No.1であったのである。

「牡丹灯籠」の速記本は、思いがけない効果も生んでいる。

日本文学史上そこそこ有名な話なので知っている方もあろう。
明治初期の言文一致文学の見本といってもよいものになっている
のである。

二葉亭四迷なども評価し、あるいは正岡子規なども言文一致を
円朝の噺の速記のやうであるべきだ」(明治17年「筆まか勢」
~須田先生)と書いている。

つまり、江戸期まで書き言葉と話し言葉は異なっていたのである。
明治になり、話している言葉を書こうと思っても、書いたことが
ないので、どう書けばよいか、わからなかったのである。
今から考えると不思議なことであるが。

むろん、円朝はそんなことは意図していなかったことであろうが、
円朝作品の質の高さが、当時の中級以上の知識人に知られる
きっかけにもなったといってよいだろう。
先の一編の値段の高さを考えると、読者は寄席にきている職人やら
普段のお客だけではなかったということも透けて見えるかもしれぬ。
これもちょっと皮肉なことになっていく。

明治20年(1887年)から書いたように円朝作品が次々に
歌舞伎芝居になっていく。
なにか、インディーズからメジャーデビューしたかのようである。
自ら賤業といっていた落語家が作った噺を、千両を取った
歌舞伎役者が、演じるようになったのである。

こうした円朝の社会的地位が上がるのと軌を一にして、元勲との
交際も始まる。
そして、実際に本来の寄席のお客との乖離も始まっていく
のである。有名になったり交際範囲が上がるのは、よいこと
ではあろう。円朝もこれは拒否はせずよいこととして積極的に
付き合うようになったのであろう。
が、寄席の客にたいして、高慢になっていった、ということでは
なく客に対する姿勢はあまり変わらず腰は低かったという。
(「円朝遺聞」~須田先生)

もう一つ、この時代「松方デフレ」という不景気、格差の拡大が
広がっていた。その中で出世美談「塩原多助」など「忠義や孝行、
勤勉・節度といった」ものが寄席の聴衆から乖離していったと須田
先生は指摘している。

寄席引退。
明治24年(1891年)、円朝は東京の寄席すべてに出演しない
ことになる。原因は寄席の経営者である席亭との対立であった。

また、当時「五厘」と呼ばれるマネージメントやというのか、
噺家、芸人を寄席に送り込む仲介人というのがいた。ある種、
寄席と芸人を支配する存在でもあった。
円朝はこうした「五厘」とも対立していたという。

円朝三遊派のトップであり一門率いて寄席へ出演しない。
三遊派で、支援者を募り自ら寄席を開業するということを
計画していたというが、門下にこの計画を席亭などにリークする者
があり三遊派も分裂。結果として、円朝と門下一人だけが出演しない
ということになった。

よくあることといえば、そうかもしれぬ。
当時、三遊亭円遊(3代目※)という売れっ子がいた。
名前の通り、三遊一門である。リークは円遊らという。(須田先生)
円遊は「ステテコ踊り」というので一世を風靡していた。
「ステテコ踊り」というのは一席噺を終えると、尻っ端折りをして
半股引(ももひき)を見せて、毛脛を出して踊りを踊るもの。噺の後に
踊りを踊るというのは、今でもどうかするとやる人があるが、珍しい
ものではない。円遊のものは踊りと唄がおもしろかったようである。
鼻が大きく、鼻の円遊などともいわれて、人気者であった。
明治の落語史には必ず出てくる有名人である。
噺ができないかといえば、そんなことはなく「口演速記・明治大正落語
集成」(講談社)(以下「集成」)にはたくさんの円遊口演の噺が入って
いる。特に「野ざらし」である。「野ざらし」は談志家元も楽しそうに
演っていたが、私も覚えたことがある。談志家元などを含めて今に残って
いる「野ざらし」は中で唄(サイサイ節)を歌ったりする明るい噺である。
全編が歌うような調子の春風亭柳好(3代目)、柳枝(8代目)のものが
ルーツといえよう。しかし、元来の「野ざらし」は因縁噺のような暗い
もの、と言われており、明るくしたのはこの鼻の円遊という(「集成」)。
だが、三代目円遊の速記(明治26年「集成」)ではまだサイサイ節は
歌っていない。これが四代目の円遊に伝わり(唄はここか。)さらに
釣り部分が明るくなり(同)、柳好・柳枝という流れなのであろう。

いつの時代にもこういう芸人はあり、珍しいことではない。
爆笑王の系譜といってよいのか。(戦後であれば歌笑、三平。)
円朝は別段円遊の「ステテコ踊り」を否定していたわけではない。
売れるためになんでもするのは、むしろよいことといっていた
という。(「三遊亭円朝の逸事」~須田先生)談志家元なども
いっていたが、出演られるのであればTVにもどんどん出て名を売れと。
なんといっても芸人は売れなければいけない。売れなければ寄席出演の
機会さえないのである。

だがやはり、円朝と門下との乖離は否定できない。
長いものには巻かれろ、席亭や五厘との対立で、寄席に出演られなく
なればすぐに己の生活に影響すると考えるのはあたり前のことである。

円朝明治20年代、新作の発表は寄席ではなく新聞が中心になる。
明治24年明治天皇前での「塩原多助」口演。

明治25年(1892年)大阪の寄席に出演るが健康が優れず東京に
戻っている。「それを知った井上馨は、渋沢栄一ら贔屓筋に話をして、
余生をすごせるように円朝に生活費援助を申し入れる。しかし円朝
これを断っている。元勲や著名人に接近した円朝であるが、進退は
きれいで「江戸っ子」の姿を貫いたといえる。」(須田先生)
よい話ではないか。

明治30年(1897年)東京の寄席、立花家出演。
その後、寝込むようになり、最後の高座は日本橋・木原店、
明治32年、61歳。
「牡丹灯籠」であったという。
翌、明治33年歿。
墓は谷中全生庵全生庵は生前、禅を習うなど強く影響を受けた
山岡鉄舟の創立で鉄舟の墓所でもある。(鉄舟は明治22年歿。)


晩年といってよいのか、ブレイクしてからの円朝明治天皇の前での
口演などより大きな成功も収めるが、孤立への道も同時に歩み始めた。
皮肉なものである。
書いたように、そこまで押し上げたのは、誰あろう寄席のお客。
下町の職人達であった。
彼らが、東京No.1の噺家にしたのである。

爆笑王と正統派はいつの時代にもあって、実際には並立可能である。

戦後も、真打昇進問題から円生師(6代目)と談志師らが一門を
引き連れて、落語協会から脱退。東京の定席に出演なくなる。
いつの時代にも考え方の違いからの、派閥争いは枚挙にいとまがない。
まあ、普通のこと。珍しくもない。致し方なかったことである。
ただ、天保生まれで明治の東京落語の親玉、名作、傑作を多数残した
不世出の落語家の晩年としては、生まれ育った東京の寄席の高座に
上がれなくなったことはやはり寂しかったと想像する。ただ、そのことと
円朝の作者として、演者としての評価は別のことである。

 

 

つづく

 

 

※三代目三遊亭円遊。ステテコ踊りの円遊は一般に初代ということで
定着しており、須田先生も初代としている。実際にはそれ以前に2代の
円遊がいたのははっきりしているようで「集成」では三代目としてあり
これに倣った。

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その17

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これで円朝師「真景累ヶ淵」と「怪談牡丹灯籠」のあらすじ
すべてを書き終わった。

二作のテキストに基づいた詳細な検討、考察はちょっと後に回す
とするが、先に私の感想のようなものを書いてみたい。

「累ヶ淵」のところでも書いたが、こんなことでもないと
私はこの二作に触れることはなかった。

落語が好きで、曲がりなりにも30代前半の頃プロである志らく師に
習って人前で演ったことのある者として、なにか充実した
満足感を感じている。
もちろん自分ができるはずはないし、レアな作品ではあるが、
やはり大円朝であり落語の親玉であり、あだやおろそかにしては
いけない江戸落語の大恩人であることを理解することができた。

怪談噺で、怖い、というのもあるが、それこそ博物館に入って
しまった過去の作品であり、芸であると思っていたが、まったく
左に非ず。十分にその素晴らしさが実感できた。
今、聞いても、読んでもなんら色あせることはないと
掛け値なしに思われる。

細かいことを言い出すと、いろいろある。
だが、長い話芸であるからお話、筋の、ある程度の矛盾なり、
不整合はまあ、許容されてもよいのではないかと思う。

それよりも円生師(6代目)はむろんだが、原作者であり原演者である
円朝師速記にしても描写力の凄さ、素晴らしさを都度感じた。

やはり長い噺であるが、現に今、目の前のお客を引き込む
部分部分のディテール、語り口は流石である。
(速記と実際の口演はまったく同じではないとはいうが。)
聞いて、飽きて寝てしまったら、翌日はお客はこなかろう。
(いや、寝にくる、というお客もいたというが。)

落語というのはご存知の通り、会話によって話が進む口承文芸である。
講談だと地の語りでお話を進める。芝居だと舞台があり、大道具や
小道具があって役者が演技をしてお話が進む。

落語にも地の語りや仕草はあるが基本は会話。
円朝作品のこの長い長い二作も基本は会話で成り立っている。
そういう意味で立派な落語である。

例えば「真景累ヶ淵」でこんなシーンがあった。
『その3「豊志賀の死」』

主人公の新吉がお久に一緒に逃げてくれといわれる場面。

街で偶然新吉はお久に出会う。
じゃあ、おなかもすいているので、そこの鮨やに入りましょうという
ことになる。はすみ鮨という。名前まで決まっている。

鮨やの女将さんが「今、いい種はなんにもないんですが、おにぎり
(にぎりの鮨)とちらしくらいで。お吸い物もたいしたものは
できないんでございますが」という。そして、なんだか妙な気を
利かせて「あ、お二階へどうぞ。」ということになる。
ギシギシ音のする梯子を上がって鮨やの二階座敷。四畳半、天井の低い
いやに薄暗い部屋。女将さんが上がってきて

女「ご酒(しゅ)はお召し上がりになるんですか」
新「いえ、お酒(さけ)はいただかないんですが。にぎりは、じゃ、上等なのを
  二人前と、お吸い物を、え、なんかこしらえていただいて。」
女「それから、あの、海苔でも炙ってまいりましょうか。」
新「えー、あ、そうですね。あー、それからお酒は呑みませんから、
  みりんがあったら、あ、甘いのを。五勺(しゃく、一勺は一合の1/10)
  ばかり、え、あの、持ってきていただくように。」
女「はい。ちょっと、あの、お手間を取らせるかもしれませんが。どうぞ
  ごゆっくりあそばせて。ご用の時は、お手を叩いていただけますと、
  参りますから。あ、あのー。この戸は中から鍵がかかるようになって
  ますから。どーぞ、ごゆるりと。」(円生師(6代目)版)

ちなみに、以前はみりんは酒の一種として呑むこともあったのである。
こんな場面は細かく描写する必要はまったくない。
鮨やじゃなくともまるでよい。また、鮨やの女将さんとの会話も
描く必要は筋にはなんの影響もなく、省いてもよい。しかし、
これだけ細かく描いているのである。

これがどういう効果になるのかといえば、聞く者の想像力を掻き立て
生き生きとリアリティーが出て引き込まれていくのである。
むろん長くはなるが、地の説明ではなく、会話で描くのでその効果は絶大。
次がどんどん聞きたくなる。

これが落語、なのである。
素晴らしい話芸だとは思われまいか。

円生師(6代目)の音はもちろんであるが、円朝師の速記文もこうした
筋に関係のない部分のディテールがきちんと描かれていて、夢中になって
読むことができたのである。
これが改めて二作から感じたことであった。やはり大円朝である。

さて。
円朝師、若かりし頃、まだ幕末、これで出世し、文明開化期に出版した
速記本も売れた。

だが、いつわらざるところをいうと、私などの現代の感覚では
どのくらい当時の大衆に支持されていたのか、やはり今一つわからない。
特に文明開化期である。

前にも書いたが出世美談噺の「塩原多助」や元勲との付き合い、など
“落語家らしからぬ”姿は、文明開化期の変節、と後世の文学系研究者に
とらえられ、どうしてもそういうイメージが私などの頭にもあった。

さらに、私の個人的なことをいえば、談志家元の「落語とは人間の
業の肯定である」という文脈で落語をとらえてきた。
先に「文七元結」について書いたが、縁もゆかりもない若者に
娘の身代金をいかに身投げを止めるためとはいえ、くれてやる
ということは、業の肯定、では、あり得ない、と。

どうも、円朝の冷静公平な、史実に基づいた評価が後世されて
こなかったことは間違いなかろう。
ここで、文学ではなく歴史研究者である須田先生の研究は大きな力を
発揮しているといえる。

“変節”だったのかどうかは、後に詳しく須田先生の考察とともに
考えるとして、明治、文明開化期にも円朝は少なくとも大きな支持を
得ていたということは正しく頭に置いておかなければいけない
ことである。

ついでだが円朝の当時の評価を裏付けている速記本そのもの
についてもここでちょっと書いておきたい。

書いている通り、江戸期の落語というのはその口演内容は
現代においては知ることができない。つまり書いて出版された
もの、文字になって残っているものがないのである。

歌舞伎であれば、それぞれの興行の芝居毎に台本が(すべてでは
なかろうが)残っておりまた、当時のチラシもあれば、興行毎の
浮世絵が役者の名前入りで出版されていたわけである。また、その
芝居評というのもその都度出版されていた。
なん年のなん月、どこの劇場で、配役はどうでどんな芝居が
演じられ、評判がどうであったかは史料としてほぼ追いかけることが
できるのである。

落語が文字になり出版された最初が円朝作「怪談牡丹灯籠」
なのである。このおかげでやっとリアルな口演内容を私たちは
知ることができるようになったのである。

最初に出版された「牡丹灯籠」は明治17年1884年)。全13編。
1編7銭5厘。全編買うと87銭。当時の寄席の木戸銭は3銭から3銭5厘程度で
あったという。比べると、そうとう高価である。(須田先生)
だが売れた。

それ以後、円朝作はもちろんだが他の噺家のものも速記が出版されるように
なっていく。それまで寄席で落語家が喋っただけで消えてなくなっていた
ものが、明治17年から残るようになり、現代でも読むことができるのである。
(例えば「口演速記・明治大正落語集成1~7」(講談社))

 

 

つづく

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その16

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引き続き三遊亭円朝作「怪談牡丹灯籠」その2「お札はがし」。

新三郎が死んで葬られた。

こういう話はすぐに広まるもので、気味がわるいので
近所の者もいなくなり、白翁堂勇斎(はくおうどうゆうさい)も
神田の方に越していく。

伴蔵とおみね。
ほとぼりも冷めたか、と、伴蔵の生まれ故郷である、
栗橋宿へ。

ここまでが「お札はがし」。

その3「おみね殺し」
栗橋というのは、埼玉県北部久喜市栗橋。
JRは宇都宮線
奥州日光街道の江戸から七つ目の宿場町。
利根川を渡る宿である。

伴蔵とおみねは幽霊からせしめた百両で栗橋で関口屋という
荒物屋を始める。二人は一所懸命に働く。
これが当たり、6人の使用人を使うようになる繁盛。

こうなると、伴蔵は贅沢を始め、笹屋という栗橋では名の知れた
料理やにも出入りするようになる。
ここに酌に出ている女に伴蔵は惚れる。江戸者でいい器量。
これが実は、宮野辺源次郎と逃げたお国であった。
源次郎は飯島平左衛門に槍で突かれた傷があり、これがもとで
歩けなくなり、金もなくなりここに留まらざるを得なくなったのである。
伴蔵は金はある。お国はこれを目当てに、いつか二人は妙な仲になった。

これがおみねの知るところとなり、伴蔵を問い詰め、喧嘩になる。
腹立ちまぎれにおみねは江戸での一件を言いふらすという。
これはたまらないと、伴蔵は利根川の土手下でおみねを惨殺する。

円朝師の速記では
「おみねは息が絶えましたが、どうしてもしがみついた手を放しませんから
 脇差にて一本一本指を切り落とし、ようやく刀をぬぐい…」
とかなり無残な場面を描いているが、円生師(6代目)はこの指を切り落とす
件(くだり)は描いていない。
これはポイントであろう。あまりにも無残で時代が経つと省かれていった
ものだと思われる。後に述べるが、須田先生の研究の主題、幕末の「悪党の
時代」というのはこういうものであった、と考えられるのである。

その4「関口屋強請」
伴蔵は家に戻り、追剥ぎにあっておみねがどうなったか、わからぬという。
5~6人で行ってみるとおみねの無残な姿があった。
伴蔵は素知らぬ顔をし、ワーワー泣く。役人の検死も受け、
弔いもすませる。

初七日をすぎた頃、女中のおまきというものが寒気がするといって
ガタガタと震え始める。布団に寝かせたがしばらくすると起き上がり、
「お前は幽霊から百両を取って、萩原様を殺し、海音如来のお像を
盗んだ」とうわ言を言い始める。さては殺したおみねが取り付いたか。

幸手に医者を呼びにやる。幸手宿の医者は生憎、日光へ往診中
というのでたまたま宿に居合わせた、江戸からきた医者がいたので
きてもらったという。
これが、あの山本志丈(しじょう)。
死んだ萩原新三郎と知り合いでよく訪れていたので、そこの使用人で
あった伴蔵とはむろん顔馴染み。

志丈は「伴蔵さん、たいした出世ぶりでげすな~」などといい、
自らは「ちょいと、江戸でしくじりがありましてね~、日光に知るべが
あって、きた」という。おみねが殺されたという話もして、病人を診る。
すると、ピョコンと病人は布団の上に座って、

「山本志丈さん」と名前を呼ぶ。もちろん初めて会ったはず。
「私は、伴蔵さんに右の肩からあばらへかけて切られました。
 その時の痛さというものは、、」
「、、萩原様が幽霊に取っつかれて、新幡随院の和尚から幽霊の入れない
 ようお札を方々に貼りましたのを、伴蔵さんが幽霊から百両の金を
 もらって、そのお札をはがして、、、」
「そればかりではありません。海音如来という金無垢のお像を盗んで
 その上、萩原様を殺した、、、」

「その百両で商売も始めたこと、伴蔵が女をこしらえて、私が邪魔になって
 私を殺した」と。

山本志丈はなんとなく気が付くが、この女は宿元(やどもと)へ下げなさい。
(宿元というのは奉公人の身元保証をして奉公先を斡旋する家。)
この家を出ればこんなことはいわなくなるから、と。

なるほど、家を出ると正気に戻る。
安心をしていると、今度は番頭がうわ言を言い始める。
、、、順に順に暇を出して、6人の奉公人がみんないなくなる。
山本志丈と、伴蔵と二人になって、山本志丈は伴蔵を強請る。

伴蔵は本当のことを語る。すべて伴蔵が拵えたこと。

「幽霊から百両を取ったというのは、手引きをするものがあって、
 あっしが百両の仕事をした。(ここ曖昧なのだが、おそらく
 これは別口という理解でよいのであろう。)海音如来の像は
 根津清水谷の花壇に埋めてある。
 萩原のあばらを蹴折って殺して、新幡随院の墓地から骸骨を
 掘り出して、床の中に並べて、不思議な死に方をしたように
 見せかけた。噂の類も皆、あっしが流した、、、」

これで怪談、怪異はまったくなくなってしまった、と須田先生はいう。
ただ、おみねが乗り移って下女に秘密を喋らせたというのは、怪異
として残ると思うのだが。

また、この伴蔵の種明かし告白は明治になってから、文明開化に
幽霊という迷信をふさわしくないと円朝が改作したという理解が、
今までの芸能・文学論ではされていきたというが、それに須田先生は
疑問を呈している。はたして、どちらなのか。

ともあれ。

栗橋にきて商売はうまくいったが、おみねが邪魔になり、殺して、
追剥ぎに殺されたことにした、というのも志丈に正直に話し、25両の
口止め料を渡す。
志丈は、伴蔵を、世の中に「悪党」ぶるというのはよくいるが、
お前さんは本当の「悪党」だ、たいしたもんだ、偉い、と妙に
ほめそやす。

さて、このあと、お国源次郎から源次郎の足が治ったので
越後へ旅を続けたいがその旅の費用を出してもらいたいというのを
ふざけるなといって、伴蔵が断る一件(ひとくだり)があって、
「関口屋ゆすり」はお仕舞。
ここまでで円生師(6代目)CDもお仕舞。

さて、ここからは円朝師速記から。

伴蔵は栗橋の家を売り払い、志丈とともに海音如来の像を
掘り出すために江戸へ向かう。

ここで、先に書いた幸助の物語と合体。

孝助が平左衛門の法事を終えたところに、血刀を下げた伴蔵が
暗闇の中、いきなり現れる。
この時、伴蔵は、海音如来の金無垢の像を志丈とともに掘り出したが
さらに志丈も殺した。
そこへ手が回り、伴蔵は捕手(とりて)に追われてきたところ。
孝助は取り押さえ、追ってきた捕手に伴蔵を引き渡す。
(なぜ捕まったのか詳細な経緯は描かれていない。)

孝助の物語の最後、飯島の家の再興がかなった「翌日伴蔵が
お仕置きになり、その捨て札(お仕置き後30日間その者の罪状など
を書いた高札を立てた。)を読んでみますと、不思議なことで、
飯島のお嬢様と萩原新三郎とくっついたところから、伴蔵の悪事を
働いたということがわかりましたから、孝助は主人のため娘のため
萩原新三郎のために濡れ仏(堂に入れず外に置いた仏像)を建立
いたしたという。これ新幡随院濡れ仏の縁起で、この物語も少しは
勧善懲悪の道を助くることもやと、かくながながと
お聞きに入れました。」

「怪談牡丹灯籠」円朝師速記はこれで終わっている。
(角川版「三遊亭円朝全集1」より)

 

 

つづく

 

 


三遊亭円朝著「『三遊亭円朝全集・42作品⇒1冊』 Kindle版」

圓生百席(46)牡丹燈籠1~お霧と新三郎/牡丹灯篭2~御札はがし(芸談付き)

圓生百席(47)牡丹鐙籠3~栗橋宿・おみね殺し/栗橋宿・関口屋強請


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その15

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引き続き「怪談牡丹灯籠」
「お露と新三郎」。
やはり、抜群の名作で傑作。詳細に書いている。

新三郎の家。お盆の13日。
「夜もよほどふけまして」カラーン、コローンと下駄の音がする。

二人の女が歩いている。先に歩いているのは牡丹の灯篭を下げた
30ぐらいの女。後から歩いているのは17~8。

ん!?
死んだお露によく似ている。
不思議なこともあるもんだ。

あれ、萩原様ではありませんか!?。
あ、あなたはお米さん。

お米、お露の二人であった。
お米がいうのには、山本志丈から新三郎は死んだと聞いていた。
新三郎には二人は死んだと志丈はいった、と。
お嬢様をおとしれれるため、妾のお国の差し金で両方に嘘をついていた
んですね、と。

とにかく、というので、二人を招き入れる。

お嬢様はあなた様に恋焦がれています。
お情けを頂戴したいのですが、という。

“お情けを頂戴する”というのは、なかなかよい表現ではないか。

二人は、泊まって夜のあけないうちに帰っていく。

それからというもの、毎晩、雨の日も風の日も二人は
訪ねてきて、夜のあけない前には帰っていく。

7日間。

ある晩、白翁堂勇斎(はくおうどうゆうさい)が夜遅く、
長屋に帰ってきた。

白翁堂勇斎というのは孝助の話にも出てきたが、人相見の名人。
新三郎の孫店(母屋にくっついた長屋)に住んでいる。
父と懇意で、父亡き後は、新三郎の親代わりということになっている。

新三郎の家から女の声がする。堅い男だと思っていたが、、。

戸の隙間から覗いてみると、若い女が新三郎の膝にもたれかかって、
仲睦まじく、新三郎と語らい合っている。

よく見ると、女は骨と皮ばかり。
まさしくこの世の人ではない。
裾から先は、なんだかぼやけている。

白翁堂勇斎、頭から水を浴びせられたよう、ゾッといたしまして、
家に帰ってやすむがまんじりともせず、夜が明けるのを待ちかねて
新三郎を訪ねる。

白翁堂は新三郎の人相を見る。
と、新三郎の顔に死相がはっきり出ている。

私は見てしまったが、昨夜の女は、ありゃ、お前さん、
この世のものではない。幽霊だ。

幽霊と契りを結べば、その者は必ず死ぬ、と。

そんなはずはない、と新三郎。
そんなことをいうのなら、訪ねてみなさい、というので
新三郎は、お露の住んでいるというところを訪ねてみるが、
わからない。あきらめて、一先ず帰ろうと、帰り道。
新幡随院という寺を通る。その墓場を通ると近道になる。
入っていくと、本堂の裏に、まだ新しい墓がある。そこに
毎晩、お米が下げてくる、牡丹の灯篭が雨ざらしになっている。
もしやと思い、庫裏で聞いてみると、やはり牛込軽子坂
飯島様というお旗本のお嬢さんのものだと。
やっぱり、、、。

急いで帰って、白翁堂にいう。
ほれ、いわないことじゃない。
易で、幽霊をなんとかすることはできないが、新幡随院の
良石和尚は私の古い知り合いだ、というので、詳しく手紙に
事情を書いてもらい、新三郎は良石和尚を訪ねる。

良石和尚が新三郎の顔を見ると、なるほど、死ぬ、と。

その女は、三世も四世も前からお前さんに恋焦がれている。
憎いといって出る幽霊ではなく、恋しくて出る幽霊。
これをなんとかするのはたいへんだ。
他ならぬ白翁堂の頼みでもあるので、なんとかしてあげたい。
当寺の寺宝、金無垢の海音如来の像、これを肌に付けて
おきなさい。(丈が四寸二分、15cmほど、金の価値としても
たいへんなもの。)人に見られぬよう用心をしなさい。
それから、特別なお経を教えてもらい、これを唱えろと。
暮れ方から戸締りをして、出てはならぬ。
お札を書いてあげるから、表裏の入口、小さい窓までもすべてに
このお札を貼るように。

急いで帰って、白翁堂に手伝ってもらい、お札を貼ってすっかり
準備をする。開運如来の像も身に付け、夕方からいわれた通り、
閉じ籠ってお経を唱えている。

八つ。今の時刻で午前二時頃。
寛永寺で打ち出す鐘が、陰に籠って、ぼーーーーーーん。

いつものように、駒下駄の音が、カラ~ンコロン、カラ~ンコロン。
きたな。

ピタッと足を止めて、お米が
お嬢様、お札が貼ってあっては入れません。萩原様はお心変わりで
ございます。お諦め下さい。
だが、お露は、聞かない。

お露が美しいだけに、怖さが増す、、、、、

ヒュ~~~、ドロドロ、、、、、

(いや、怖いの怖くないのといったら、尋常ではない。)

その2「お札はがし」
白翁堂同様、新三郎の孫店に住んでいる伴蔵(ともぞう)、おみねの夫婦者。
年は伴蔵、40、おみね、37。おみねは萩原新三郎の家の煮炊き、
掃除、洗濯など。伴蔵は畑を作り、庭や表の掃除をして細々と
暮らしている。おみねは働き者だが、伴蔵は怠け者。

お米、お露は、貼られているお札を伴蔵にはがしてくれと
頼む。伴蔵は最初は断るが、おみねから、幽霊と知って、
百両もらえばはがしてやる、といえと、そそのかされる。
幽霊のお米にいうと、なんとか都合をする、と。その上、
新三郎が身に付けている海音如来の像も取ってくれと頼む。
翌日、新三郎を湯に入れることを口実に、海音如来の像を分捕り、
これは箱へ入れて庭に埋めて隠す。晩、幽霊のお米はどうしたのか、
百両を持ってくる。金を確かめて、伴蔵はお札をはがす。
幽霊は、小窓から入っていく。

翌朝、伴蔵と白翁堂が新三郎の家の中を見る。
新三郎は顔が土気色になり苦悶の表情で死んでおり、細い手の
ような骨が首に巻きつき、足らしい骨が散らばっている。

新幡随院の良石和尚に白翁堂は詫び方々、新三郎が死んだことを
報告に行く。
和尚は、そばに悪い奴がついているという。また、像も盗まれたが
来年の8月頃には確かに出てくるから心配しなくてもよい、という。

和尚の言葉でお露の墓に並べて新三郎を葬る。

 

 

 

つづく

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より

 

 

 

須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」その14

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引き続き、円朝作「怪談牡丹灯籠」。

二つのお話がパラレルに進行する構成だが、そのうちの
飯島平左衛門家に奉公をした孝助のストーリーを追っている。

登場人物を整理しよう。
・飯島平左衛門…旗本、孝助の親の仇(かたき)。心ひそかに孝助に
        討たれてやろうと考えている。屋敷は牛込軽子坂
・お国…平左衛門の妾。
・孝助…平左衛門家の忠義の奉公人。
    平左衛門若かりし頃、無頼浪人であった父黒川孝蔵は
    平左衛門に切られている。仇を打とうと剣、槍を平左衛門に
    習っている。平左衛門は自分が仇であることは知っているが
    孝助は知らない。
・宮野辺源次郎…飯島平左衛門家の隣家の次男。お国と密通している。
・相川信五兵衛…平左衛門と昵懇。孝助の縁談の相手お徳の父。
・お徳…相川家の娘、孝助の縁談の相手。

お国は隣家の次男源次郎と密通。平左衛門を亡き者にし、源次郎を
娘が亡くなった飯島家の養子にしようとたくらむ。
源次郎とこの相談をしているところを孝助に立ち聞きされる。
これに孝助は、源次郎、お国を殺し、自分も腹を切ろうと思い詰める。
お国は孝助に露見したことを知る。

その頃、孝助に縁談話が持ち上がる。相手は水道端の相川
信五兵衛家の一人娘お徳。つまり養子にもらってくれるというのである。

様々お国源次郎は孝助をおとしいれようと計略を練って実行もするが、
孝助も武芸が上達し、運も味方し失敗。また孝助の平左衛門への忠義も
強調されていく。

孝助は、お国の寝間に忍んできた源次郎を槍で突こうと用意をするが、
誤って主人平左衛門を突いて深手を負わせてしまう。瀕死の際で、
平左衛門は孝助の仇で、討たれてやろうと思っていたことを明す。
孝助は、仇は仇、父親は悪かったから殿様(平左衛門)に殺されたまでのこと、
殿様への忠義は変わらない、という。
このままでは、平左衛門家は改易になってしまう、孝助に形見の
刀と包みを与え早く逃げるように指示する。

孝助は相川家へ。信五兵衛に事の次第を語る。
そして、包みには平左衛門の書置き(遺書)が入っていた。
信五兵衛がこれを読む。

お国源次郎はおそらくお国の実家の越後へ逃げるであろう。
孝助にこれを追わせ、仇を討たせ、孝助とお徳の子に飯島家を再興
させてほしいということであった。
お徳と孝助は婚礼をし、翌日、孝助は主人平左衛門の仇討の旅に
出立する。

孝助はお国の出身である越後村上へ行くが見つからぬ。
信濃から美濃と探すがわからず、平左衛門の一周忌も近くなるので
一度江戸に戻る。
相川家に帰ると、お徳との間に男の子が生まれていた。

寺で法事の後、仇討の吉凶を占ってもらうため、人相見の白翁堂勇斎を
訪ねる。と、そこで孝助は、偶然小さい頃に生き別れた母、おりゑに会う。

孝助はおりゑに小さい頃から、今までのことの話をする。
すると、なんとおりゑは今、下野宇都宮の再婚先で仇のお国源次郎を
かくまっており、今、たまたま江戸見物にきていたという。
お国というのは、再婚相手の連れ子であったというのである。
これも因縁。
おりゑは手引きをするからというので、孝助は宇都宮へ向かう。

すると、おりゑは、婚家への義理からお国源次郎を逃がして
いたのであった。そして、二人の行き先を教え、すまない、
というので、おりゑは自害。

孝助は後を追い、無事、本懐を遂げる。

江戸に戻り「孝助の一子幸太郎をもって飯島の家を立てまして」
幸助の物語は終わる。

お気付きであろうか。
孝助の話には、怪談は一切出てこない。
一貫して、忠義、そして主人の仇討で終始しているのである。

さて。
もう一つのパラレルに進行する「怪談牡丹灯籠」。

円生師(6代目)でも、今の落語家でも演じられるのはこちらだけ。
だが、これも全部ではない。円生師(6代目)のCDと速記からあらすじを
追ってみる。

登場人物は、孝助のお話と共通している者もある。

その1「お露と新三郎」
飯島新左衛門家に出入りの医者。山本志丈(しじょう)という。
ちょっと変わった言葉だが、幇間医者という。“お”を付けて
幇間医者などともいう。

幇間はタイコモチ。ホウカンが正しい読みだが、こう書いて、落語などでは
タイコモチと読む(読ませる)。(本当は落語に限らない。以前の東京の
庶民的な文芸関係での用法といったらよいのか。私がいつも内儀さんと書いて、
カミサンと読ませているのもその例である。)

タイコモチはもうそろそろ死語になりつつあるかもしれぬ。幇間医者で
読みはタイコイシャである。
もちろん比喩的な使い方だが、調子がよくタイコモチのような医者、
ということである。漱石の「坊ちゃん」に出てくる赤シャツは「〇〇でげすなぁ~」
なんという言葉使いをし、このキャラである。今はもうわからなくなっているが、
これがキザな言葉使いといわれた。漱石も使っているので明治の言葉使いと
私は思っていたが、江戸末には使われていたわけである。私にとっては発見である。
さらに余談だが、そういえば、円生師(6代目)はこのキャラ、この言葉使いを
よくしていたが、志ん生師(5代目)はあまり聞いたことがないように思う。
嫌いであったのか。今でも「酢豆腐」の腐った豆腐を喰わされる若旦那には
この言葉使いをさせるのが普通であろう。

ともあれ。
その幇間医者の山本志丈が、根津清水谷の萩原新三郎という者を訪ねる
ところから始まる。
この新三郎は21歳。「生まれつきの美男」でいまだ独身。
放っておくと家に閉じこもってばかりの内気な男。父は浪人ながら
円生師(6代目)はブローカーといっていたが、ネットワークが広く、
さまざまな人とのつながりがあって、間に入って商売をしていた。
それで蓄財をし、田畑から長屋、家作を持つようになった。
受け継いだ新三郎はまあ、若くして悠々自適の生活、というわけである。

山本志丈は亀戸の梅見に連れ出す。そこから飯島新左衛門の寮(別荘)に
まわる。ここには新左衛門のお嬢様、お露がお付きの女中、お米と
二人でいる。奥方が亡くなり、例のお国に殿様の手が付き、このお国と
お露は折り合いがわるく、離されたというわけである。お露は、別嬪さん。

訪れるとお露は一遍で、美男の新三郎にまいってしまう。その日は夜に
なるが、まあさすがに二人は帰る。

新三郎は新三郎でお露のことが気になって仕方がない。だが、性格上、
自分から再訪することはできない。悶々とする日々。

志丈と新三郎が訪れたのが2月、そこから4か月。6月になってひょっこり
志丈が訪ねてきた。と、お露さんが亡くなったというのである。
お付きの女中、お米も看病疲れというのか、後を追うように亡くなって
いた。志丈がいうのには、新三郎に恋焦がれて死んだという話をして、
とっとと帰ってしまう。
新三郎は驚くが、志丈は葬られた寺の名前さえいっていなかったので
そのまま時はすぎる。

そして、7月、お盆の13日。
「夜もよほどふけまして」カラーン、コローンと下駄の音がする。

 

 

 

つづく

 

 


須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」より